俺達のプロレスラーDX
第190回 豪竜のプロレス捕手主義/ヘラクレス・ヘルナンデス(ハーキュリーズ)
ヘラクレス・ヘルナンデスはWWEと新日本で活躍した怪物系レスラーである。
アメリカではギリシャ神話の英雄「ヘラクレス」の英語名であるハーキュリーズを名乗り、日本ではヘラクレス・ヘルナンデスというリングネームで闘ってきた。193cm 127kgの筋骨隆々な巨体を誇り、パワーファイターの王道を歩んだ。その一方で中堅として、やられ役やタッグの司令塔、悪役、善玉とあらゆる役割をこなした名脇役でもあった。バイプレイヤーもできる怪物…それがヘラクレス・ヘルナンデスだった。恐らく彼が活躍した当時はどこか過小評価されていたと思う。だが、今だからこそ言える。
「ヘラクレス・ヘルナンデスは実はもっと評価されていいプロレスラーだった」
知る人ぞ知る名レスラーであるヘラクレス・ヘルナンデスのレスラー人生とは…。
ヘラクレス・ヘルナンデスは1956年5月7日アメリカ・フロリダ州タンパ生まれた。本名はレイモンド・フェルナンデスという。ヘルナンデスはプロレス入りする以前はボディービルダーだった。鍛え抜かれた肉体はベンチプレス240kgを上げたという。エディ・グラハムとヒロ・マツダにスカウトされて1981年6月にNWAフロリダでデビューを果たす。ちなみに1979年にミッドサウス地区でミスター・レスリング3号でデビューしたという説もあるそうだ。ヒロ・マツダといえば名レスラーでありながら、ハルク・ホーガン、ポール・オーンドーフ、スコット・ホール、レックス・ルガー、ロン・シモンズといったアメリカン・プロレスを代表するレスラーを多数育成した名トレーナーでもあり、ヘルナンデスはマツダ門下生だった。
デビュー直後からハーキュリーズ・ヘルナンデスというリングネームでアメリカ中西部で活動していた彼は1983年1月にヘラクレス・ヘルナンデスとして全日本プロレスで初来日している。いきなりメインイベントでジャンボ鶴田と対戦し、善戦するも敗退。当時の彼は黒のロングタイツだった。
その後、NWAミッドアトランティック地区やビル・ワット主宰のMSWAで経験を積み、テッド・デビアスと組んでミッドサウス・タッグ王座、地元フロリダでは南部ヘビー級王座、フロリダ・ヘビー級王座を獲得している。デビューして4年後の1985年にWWE(当時WWF)に移籍する。極太チェーンを首に巻き、黒のショートタイツを身にまとい大型マッスルヒールとして暴れることになった。リングネームはシンプルに「ハーキュリーズ」となった。フレッド・ブラッシーやボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、ヒールの王道を歩んでいた。
ヘルナンデスのファイトスタイルは実にパワーファイターの典型である。ネックハンギング・ツリー、ベアハッグ、リフトアップ・スラム(ミリタリープレス)といったパワー殺法を駆使し、クローズライン(ラリアット)とパンチでペースをつかみ、最後はトーチャー・ラック(ヘラクレス・クラッシャー/アルゼンチン・バックブリーカー)、あるいはフルネルソンでギブアップ勝ちを奪うのが彼の試合運びだ。円熟になると投げっ放しパワーボムをフィニッシュ・ホールドとして使用している。ただし、フィニッシュにいたる過程でヘソで投げるバックドロップやダイビング・ダブルアックスハンドル、チョークスラムなどを意外性を突く技も使ったりしている。単純明快なパワーハウス(人間発電所)のような怪力主体のプロレスはブルーノ・サンマルチノから続くニューヨーク(WWE)の伝統スタイルともいえ、彼はそのスタイルを踏襲していた。また長髪でチェーンを振り回すワイルドなその姿は"キングコング"ブルーザー・ブロディを彷彿とさせた。
ハルク・ホーガン、ビリー・ジャック・ヘインズ、アルティメット・ウォリアーと抗争を繰り広げてきたヘルナンデスは1988年にベビーフェースに転向。テッド・デビアスやハクとの抗争に突入する。悪役でも正統派もそつなくこなし、WWEの中堅としての立ち位置を作っていた。
1990年夏に再びヒールに転向したヘルナンデスは若手のポール・ローマと「パワー&グローリー」といタッグチームを結成する。彼はコンビの司令塔となり、チームワークを構築していった。ローマは当時、WWEではジョバーで、この「パワー&グローリー」はやられ役からの脱却を意味していた。パワーのヘルナンデスとスピードのローマは実にコンビネーションがよく、タッグ戦線のコンテンダーに加わる。「パワー&グローリー」が得意にした合体技がヘルナンデスがスーパー・プレックス(雪崩式ブレーンバスター)で投げ、ローマがダイビング・ボディ・プレスを見舞う、通称「パワー・プレックス」だった。
当時のWWEタッグ戦線はリージョン・オブ・ドゥーム(ホーク&アニマル)、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)、ザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)といった強力なコンビが多い中で、彼等を引き立て、いい仕事ができるチームとなったのが「パワー&グローリー」だった。ちなみにローマは後にヘルナンデスとのコンビ解消後の試合を見たことがあるが、本当にショッパイ選手だったことを記憶している。職人レスラーのアーン・アンダーソンがタッグを組んであまりのひどさにさじを投げたくらいだから、よっぽどである。そう考えるとローマとのコンビを成立させ、中堅コンビとしてタッグ戦線に生き残ってきたのだから、ヘルナンデスがいかに高い技量を持つレスラーだということが実証されていると思うのだ。
ローマとのコンビ解散後、シングルプレーヤーとして、ベビーフェースやヒールのやられ役も務めた彼は1992年にWCWへ。そこでタイ出身の謎覆面「スーパー・インベーダー」というミステリアスなキャラに転身する。赤のマスクは何故か日の丸ハチマキが巻かれ、いかにアメリカ人が考える胡散臭いアジア人になり、元NWA世界王者ハーリー・レイスをマネージャーに迎え、売り出しをかけるも不発に終わり、やがてこの赤覆面と共に彼はWCWをフェードアウトしていった。
1993年3月から新日本に参戦した彼は「ヘラクレス・ヘルナンデス」というリングネームで活躍する。彼はここで最高の相棒で出会う。新日本最強外国人レスラーの"超竜"スコット・ノートンである。二人は「ジュラシック・パワーズ」を結成する。当時の世界中で大ヒットを記録したハリウッド映画「ジュラシック・パーク」にちなんでこのコンビ名が名付けられた。ジュラシック・パワーズは恐竜の如く、新日本を闊歩していった。
ジュラシック・パワーズ(スコット・ノートン&ヘラクレス・ヘルナンデス)は1990年代の新日本プロレスで活躍したタッグチームだ。元々、このチームが出来た背景には1992年11月に新日本に誕生したロードウォリアーズのホークと佐々木健介(パワー・ウォリアー)が結成したヘルレイザーズのライバルタッグとして新日本が作り上げたものだった。スコット・ノートンは新日本最強外国人レスラーで後にIWGPヘビー級王座を二度戴冠する怪物。またの名を恐竜を越えた存在"超竜"と呼ばれている。
ノートンのパートナーを務めるヘラクレス・ヘルナンデスはノートンよりも年上でキャリアも豊富なパワーファイター。WWE(当時WWF)ではハーキュリーズ(ヘラクレスを英語ではこう言う)というリングネームで長年活躍。大型ヒール、やられ役、タッグ屋などあらゆるポジションで彼は活動した。
ヘルレイザーズとジュラシック・パワーズはライバルとして抗争を繰り広げた、
時にはヘルナンデスが愛用のチェーンでパワーの首を締め上げ反則負けと喫したり、パワーがヘルナンデスのチェーンを腕に巻いてラリアットを爆発させた。そんな中でジュラシック・パワーズは1993年8月にヘルレイザーズを破り、IWGPタッグ王座を獲得した。それはほぼ一方的な圧勝劇だった。秋のSGタッグリーグ戦ではその力を見せつけ、準優勝。特にヘルナンデスの潜在能力が爆発した印象が強かった
【1993年冬の名古屋、ジュラシック・パワーズのピンチに"超竜の良き女房役"ヘラクレス・ヘルナンデス が燃えた夜/ぼくらのプロレス 2016/2/5】
ここで私が今回、彼を取り上げるきっかけとなった試合が行われた。
1993年12月10日、愛知県体育館。ジュラシック・パワーズが保持するIWGPタッグ王座に、元WWE世界タッグ王者ナスティ・ボーイズ(ジェリー・サッグス&ブライアン・ノッブス)が挑戦した。ナスティ・ボーイズはデビュー時からコンビを結成し、コンビネーション抜群の悪ガキコンビである。
だが、試合前からノートンは肩に爆弾を抱えていた。どうやら余りにもオーバーワークをし過ぎて、肩を痛めたようだった。彼の肩にはテーピング、ナスティはノートンの肩を徹底的に攻めた。ジュラシック・パワーズのピンチを救ったのは"女房役"ヘルナンデスだった。ナスティの二人をダブルラリアットでなぎ倒し、パワースラム、チョークスラムで叩きつけ、大活躍。フィニッシュはノートンに託して、見事に勝利に導いて見せた。
ヘルナンデスが燃えた名古屋の夜。それは今まで声援があまり起こらなかったプロレスラーが大歓声に包まれた瞬間だった。
【1993年冬の名古屋、ジュラシック・パワーズのピンチに"超竜の良き女房役"ヘラクレス・ヘルナンデス が燃えた夜/ぼくらのプロレス 2016/2/5】
私はこの試合で観たのはヘルナンデスのレスラーとしての凄みと器量だった。恐らくヘルナンデスはノートンを立てる役割だと理解してこれまではタッグプレーに努めて、さりげなく己の実力を発揮していた。だがノートンがケガで戦闘不能となった時、彼はチームの危機を守るために、全面的に出て、活躍していった。そして、散々お膳立てをした上でノートンにフィニッシュを託したのはまたカッコよかった。
だがノートンとのコンビも長くは続かず、1994年8月を最後に新日本を離れた。名タッグチーム「ジュラシック・パワーズ」は我々に何も告げず自然消滅していった。その後、ノートンはあらゆるパートナーとコンビを結成するが、どうもしっくりいかない。ノートンにとってベストパートナーはやはりヘルナンデスだったのではないだろうか。
その後ヘルナンデスはアメリカAWAオマージュのようなAWFという団体にレギュラー参戦。また他のインディー団体を転戦していくも、1999年にプロレス界を引退する。引退後に彼が選んだ職業はトラック運転手だった。
実はヘルナンデスは愛妻家で6人の子供を熱心に育てる良きパパだったという。トラック運転手として第二の人生も歩んだのも、レスラーとして命を落としかねない危険な職業を選ぶより、家族との時間を選びたいという彼自身の希望だったのだのだろう。それに、パワーファイターの寿命は短い。力や筋肉の衰えをさらけ出す前に引退という道を選んだというのは彼のプロ意識が見える。
2004年3月6日、ヘルナンデスはフロリダ州タンパの自宅で心臓発作に倒れ、この世を去った。
享年47。
早過ぎる死は多くの仲間達が惜しんだ。
ヘルナンデスのレスラー人生を振り返り、考察してみると、彼の全盛期は新日本時代の「ジュラシック・パワーズ」だったと思う。恐竜を超えた存在という意味で"超竜"と呼ばれたノートンの凄まじきパワーは、伝説の英雄ヘラクレスを名乗り、恐竜となってノートンを支えた"豪竜"ヘルナンデスが隣にいた時に一番発揮されていたように思う。
彼はプロレス界には野球で言う「キャッチャー」のようなポジションであり、生き方があると教えてくれた。キャッチャーとはピッチャーを支える「女房役」と言われ、守備の観点からは「扇の要」である。その一方でバッターとしての役割も問われるものだ。
ヘルナンデスはタッグマッチにおいても、シングルマッチでも相手もパートナーを支え、引き立てる名捕手だった。職人レスラーとも違い、ジョバーでもない、プロレス界のキャッチャーという稀な地位を築いたのが彼のレスラー人生だったと私は考える。
ヘラクレス・ヘルナンデスのプロレス捕手主義。
これは今のプロレス界では案外、空き家である。
そう考えると、彼の存在は特別なオンリーワンだったのかもしれない…。