俺達のプロレスラーDX
第185回 青い目の宮本武蔵~嘘とズルと逃げを嫌う頑固一徹の仙人伝~/カール・ゴッチ
「Never lie,never cheat,never quit(決して嘘をつくな。決してごまかすな。決して放棄するな)」
カール・ゴッチが残したこの名言は彼のイデオロギーでありアイデンティティーである。彼は嘘とズルと逃げを嫌い、レスリングを極めるために生涯を捧げた。
人は彼をこう呼ぶ。
「プロレスの神様」
しかし、本人はこう否定する。
「わたしをゴッドと呼んでくれるな。わたしはろくな教育も受けていないただのクリップルド・オールド・マンcrippled old man(障害者の老人)だ」
【「私は神様ではない」“プロレスの神様”カール・ゴッチ名言集/日刊SPA・フミ斎藤のプロレス講座・第47回】
そう、彼を神様として崇めるのは日本だけである。
“プロレスの神様”というニックネームはあくまでも日本のプロレス・マスコミが命名したもので、ゴッチさん自身がみずから“ゴッド・オブ・レスリング”を名乗ったことはいちどもなかった。
【「私は神様ではない」“プロレスの神様”カール・ゴッチ名言集/日刊SPA・フミ斎藤のプロレス講座・第47回】
ゴッチはプロレスラーとして大きな成功を収めておらず、アメリカでの知名度は低い。しかし、レスリングの技術とトレーニングに対する拘りから、日本では尊敬を集めている。
【カール・ゴッチ/wikipedia】
そんなゴッチが愛読書にしていたのが江戸時代初期の最強剣術家・宮本武蔵が執筆した「五輪書」だった。武蔵が剣術に人生を捧げたように、ゴッチもレスリング一筋の人生を歩んできた。
これは20世紀に現れた"青い目の宮本武蔵"によるレスリングを追い求める壮大な物語である。
カール・ゴッチは1924年8月3日ベルギー・アントワープで生まれた。プロフィールはドイツ・ハンブルク出身となっているが、実際は生まれはベルギーで9歳からドイツに移住したのが真相である。本名はカール・イスターツ。ドイツ人の父とハンガリー人の母の元で誕生したゴッチがレスリングに出会ったのは10歳の時だった。
当時のドイツは独裁者ヒトラーの支配下にあった。
家が貧しくて学校を辞めていたゴッチは第二次世界大戦が始まった、多感な10代の数年間を強制収容所で過ごしていたという。また17歳の時に巨星労働で工場で働いていた際に機械に手を挟まれ、左手の小指を失うことになる。彼が自身を「障害者」だと語るのはこのことを指しているのかもしれない。実際に彼は左手小指を失ったことで生涯、社会保障金を受け取ることになる。
第二次世界大戦が終わり、アメリカ軍によって収容所から解放され、自由の身となったゴッチはレスリングを頭角を現す。1945年から1950年のレスリングベルギー選手権フリースタイル&グレコローマン6連覇を果たす。さらに1948年のロンドン五輪フリースタイル&グレコローマンのライトヘビー級ベルギー代表として出場し、フリースタイルは10位、グレコローマンは8位という結果に終わった。
ゴッチがプロレスの世界に入るのは1950年のこと。理由は「大好きなレスリングで生計を立てるため」だった。地元であるベルギー・アントワープの小さなプロモーションで本名でデビューする。するとアントワープに遠征に来ていたイギリス人プロレスラーのアルフ・ロビンソンがゴッチに声をかけた。
「本当のレスリングを学びたいならば、君はウィガンに来て、ビリー・ライレージムの門下に入らなければいけない。よかったら紹介するよ」
レスリングが好きで好きでたまらなかったゴッチはベルギーからイギリスに渡り、1951年1月に”蛇の穴”として恐れられたビリー・ライレージムに入門する。
ちなみにゴッチを"蛇の穴"に紹介したアルフ・ロビンソンは後にライバルとなる弟弟子のビル・ロビンソンの叔父だった。
“蛇の穴” ビリーライレージム は、1900年代初期に活躍した名レスラー、ビリー・ライレーが、イギリス・ウィガンに設立した、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングのジムです。狭いジム内で、当時世界のトップクラスのレスラーがしのぎを削りあい、激しい練習を繰り広げていました。日本でも有名なのは、“プロレスの神様”と呼ばれ、アントニオ猪木を始め、数多くのプロレスラーを指導した カール・ゴッチ。華麗なるレスリングテクニックで、日本のプロレス界に一大旋風を巻き起こした“人間風車”ビル・ロビンソン。 とりわけ、1975年のアントニオ猪木との一戦は、日本のプロレス史上に残る名勝負とされています。この二人の活躍により、昭和40-50年代に日本でも、“蛇の穴” ビリーライレージム、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの名は、広まりました。
【ロイ・ウッド公認ライレージム京都ホームページ】
ゴッチは師範代のビリー・ジョイスとの初めてのスパーリングで僅か1分で関節技を極められたという。"蛇の穴"と出会ったことでまだ"井の中の蛙"だと知ったゴッチはさらに練習に励むことになる。
「どうしたら俺は強くなれるのか」
その答えを求めて、彼は毎日ジムに通いスパーリングに明け暮れた。試合があっても、日帰りができる日は練習するためにジムに戻った。それでも、師範代のビリー・ジョイスや先輩レスラーに敵うことはなかった。強くなるために、愛するレスリングを極めるためにゴッチはジムで学んだのが“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”だった。数々の関節技を習得したゴッチは5年間、イギリスに滞在することになる。
関節技はゴッチにとって"ナイフ"であり"刀"だ。
「実力が接近した(選手間の)闘いでは、相手の両肩を3秒間マットに押さえてフォールを取ることは本来、かなり困難な作業なんだ。ショー的要素をはぶいた試合では、どちらか先にサブミッション=関節技を決めたほうの勝ちだ。日本の重量級柔道でも、きれいに一本を取るのがむずかしいから襟元を取ってサブミッションを使うだろ。いかなる格闘技でも、もっとも恐ろしいのは関節技なのだ」
【「私は神様ではない」“プロレスの神様”カール・ゴッチ名言集/日刊SPA・フミ斎藤のプロレス講座・第47回】
ビル・ロビンソンとはこの"蛇の穴"でスパーリングをしていた。最初は歯が立たなかったロビンソンだが、最終的には一方的に極められることはなかった。ゴッチとロビンソンが田舎の町道場でスパーリングをしていたというのは都市伝説ではなく、事実である。
後にゴッチは新日本プロレスの代名詞となる「ストロングスタイル」の開祖や象徴と言われることになるが、「ストロングスタイル」の定義は千差万別であらゆる解釈がされているが、ゴッチにとっての「ストロングスタイル」とは「どうしたらより強くなるのか、強くなるために何をするべきか」という自問自答に対し、修練と研鑽をしていくことで課題に挑もうとするレスラーとしてのアティチュードだったのかもしれない。
「(レスリングは)誰かを打ちのめすことで学ぶのではなく、打ちのめされて学ぶんだ。人生と同じだよ」
ゴッチのこの名言はイギリスでの修業時代があったから生まれたものかもしれない。
だがその一方でゴッチは「シュート」という単語を嫌う。
「シュートshootは、レスリング・ビジネスに関わっている人間だけにしか通用しないスラングだ。シュートの反対はワークworkだ。シュートとかワークとか、そんなものは卑しい単語なのだ。なにも隠すことがないのならレスリングと呼べばいいではないか。シュートとは拳銃を撃つという意味だ。『OK牧場の決闘』でもみせようというのか」
【「私は神様ではない」“プロレスの神様”カール・ゴッチ名言集/日刊SPA・フミ斎藤のプロレス講座・第47回】
ゴッチにとってプロレスの世界で「強くなること」は後ろめたいことではなく、至極当然で、真っ当な行為だったのだ。
1959年、ゴッチはイギリスからカナダに渡った。ゴッチはこの時、35歳。プロレスラーに転向してからの大半を修行期間に費やしていたのである。
カナダに進出するとゴッチはリングネームをカール・クラウザー、キャロル・クラウザーというリングネームに改名し、ドイツ人を名乗るようになる。また1960年にアメリカに進出する。そこで、オハイオのプロモーターアル・ハフトのアイデアで、伝説のプロレスラーであるフランク・ゴッチに肖って、カール・ゴッチに改名する。1961年にはオハイオ地区でNWAイースタンステーツヘビー級王者に輝いた。
ゴッチが初来日したのは1961年4月、日本プロレスのリングで、カナダ時代に名乗っていたカール・クラウザーというリングネームで来日したのである。184cm 110kgのバランスの取れた強靭な肉体と"蛇の穴"仕込みのレスリングテクニックを誇った彼は吉村道明戦で、日本初のジャーマン・スープレックス・ホールドを披露している。
元々、グレコローマンレスリングではベリー・トゥ・バックと呼ばれる反り投げをゴッチはプロレス流にアジャストしたのがこのジャーマンである。なぜ、ジャーマン・スープレックスと呼ばれることになったのかはゴッチがドイツ人というプロフィールだからである。また、このジャーマンは日本語で「原爆固め」と称されるが、これはゴッチ自身がこの技を「アトミック・ホールド」と呼んでいたため。それを東京スポーツが紙面上で和訳したワードが「原爆固め」だったのである。
ちなみに同年5月にゴッチは力道山とシングルマッチで対戦している。60分3本勝負で行われたこの試合の結果は1-1の後に両者リングアウトの引き分けで終わっている。力道山はゴッチについてこのように語っている。
「強けりゃいいってもんじゃねえ」
プロレスライターの斎藤文彦氏はこの力道山発言をこう評している。
「お客さんが見ていて面白くないと思ったんじゃないですか。それはゴッチ先生の動きがつまらないというよりは、力道山のプロデューサーの感性からすれば、"正義の味方・力道山"とは相性がよくない外国人レスラーってことだったんでしょうね」
【Dropkick「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……■「斎藤文彦INTERVIEWS⑤」】
だが、その翌年の1962年8月にゴッチはトラブルを起こしてしまう。俗にいう「バディ・ロジャース襲撃事件」である。
ゴッチの現役時代の武勇伝でもっとも有名なものはコロンバスでの"ロジャース襲撃事件"(1962年8月31日オハイオ州コロンバス、フェアグラウンド・コロシアム)と言われている。ゴッチとビル・ミラーがNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースをドレッシングルームに監禁し暴行を加え、ロジャースは右手を骨折。同日の試合出場をキャンセルした。
(中略)
ロジャースの突然の欠場に怒った観客の多くがチケット代の払い戻しを求め、同夜の8000ドルの興業収益のうち2500ドルが払い戻されたという。ロジャースはゴッチとミラーを傷害罪で刑事告訴したが、その後、取り下げた。
【プロレス入門 神がみと伝説の男たちのヒストリー 斎藤文彦/ビジネス社】
これが原因がどうかは定かではないが、「ゴッチはアメリカで売れないプロレスラーだった」と見られるようになる。
だがこの事件から2週間後にドン・レオ・ジョナサンを破り、オハイオ版AWA世界ヘビー級王座を獲得したゴッチは二年間を渡り、保持した。ローカル団体だったかもしれないが、アメリカで彼は世界王者に君臨していたのだ。
そのゴッチの前に現れたのが、20世紀最強のプロレスラーと呼ばれたNWA世界ヘビー級王者"鉄人"ルー・テーズだった。二人は二年間にわたり、実に9度タイトル戦で闘い、なかなか決着がつかなかった。1964年9月7日に互いの王座を賭けて統一戦を行い、テーズが勝利して、オハイオAWA王座は封印された。後年、テーズはゴッチを「私を最も苦しめた挑戦者」と評していたという。ローカル王座は獲得できたが、メジャー王座は獲得することはできなかったゴッチは「無冠の帝王」と呼ばれていた。
その後、ゴッチは1967年にロサンゼルスのWWAに参戦し、マイク・デビアスとのコンビでWWA世界タッグ王者に輝き、1968年にアメリカ市民権を取得する。実は第二次世界大戦終了時にアメリカ兵に救われたゴッチはいつか"アメリカ人"になりたいという夢を持っていたという。
そんなゴッチに"コーチ"としてオファーをかけたのが日本プロレスだった。1968年1月から日本に在住し、伝説の「ゴッチ教室」を開いた。
「ゴッチ教室」の練習時間は午前10時から2時間半で、缶詰状態のままのトレーニングだった。時間厳守で、練習開始時間に1分でも遅れたら閉め出しである。
(中略)
報道陣に練習を公開したのは、神宮外苑の絵画館前での写真撮影用の1回のみで、道場内の練習は関係者以外、一切シャットアウトだった。それほど厳しかった。練習内容はほとんど基礎体力作りのメニューばかりで、ヒンズースクワット、腹筋を鍛える運動、縄跳び、ブリッジの反復運動と首を鍛える運動、背筋力を強くするためのタオルやゴムチューブを使っての運動、ロープ登り、練習相手と組み合っての首相撲、そして受け身の反復練習など様々だった。
(中略)
休憩タイムがあったにしろ、2時間半に及ぶ練習から解放された選手たちは、全員ヘロヘロ。特に大相撲から転向の永源遥、安達勝治(ミスター・ヒト)らは腹筋運動で苦労した。
【外国人レスラー最強列伝 門馬忠雄/文藝春秋】
厳しい「ゴッチ教室」の優等生となったのがアントニオ猪木だった。
猪木が得意技にしていたジャーマン・スープレックス・ホールド、卍固めはゴッチ直伝である。
ゴッチは猪木についてコーチ時代にこう語っている。
「猪木は日本人レスラーの中で一番やる気があるし、素質も素晴らしい。体も柔軟だし、新しいテクニックの吸収に貪欲なのがいい。私のコーチは毎日4時間から5時間続けられるが、猪木は食らいついてくる」
そして、ゴッチが日本で"プロレスの神様"と呼ばれるようになったのはこの頃からである。きっかけはゴッチの指導を受け、アメリカで成功していたヒロ・マツダが1966年に6年ぶりに凱旋帰国をすることになり、マツダを売り出すための記事をベテラン記者の鈴木庄一氏が「ボクシング&プロレス」(ベースボール・マガジン社)で「"神様"ゴッチの指導を受けた弟子」と書いたからである。そこからゴッチは"プロレスの神様"と呼ばれているのだ。
ゴッチは1969年5月まで東京に在住し、日本プロレスの鬼コーチとして後進の指導に努めた。日本プロレスとの契約が切れるとゴッチはアメリカ・ハワイに渡る。
ゴッチは45歳になっていた。ハワイで清掃員として働くゴッチはプロレスから離れた。
「プロレスをやめてハワイの清掃局に勤めていましたね。そのときのゴッチ先生は40代半ばですからね。年齢的なこともあったでしょうし、アメリカのプロレスでお金を稼ぐとか、スターになりたい考えもなかった。初めはハワイでも試合をしていたんですよ。でも、ゴッチ先生にとって何か気に入らないことがあったんでしょうね。プロレスをやめて清掃局で働くようになった。ゴッチ先生はゴミ清掃車の運転していたそうですけど、そこでも清掃員を鍛えていたんだって。ランニングしながら各家のゴミを集めさせたり(笑)」
【Dropkick「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……■「斎藤文彦INTERVIEWS⑤」】
このままプロレス界を去るつもりだったゴッチにオファーをかけたのが国際プロレスだった。実はゴッチが国際プロレスに上がるきっかけとなったのは。かつての弟弟子からの勧誘だった。
"人間風車"ビル・ロビンソン。
かつて田舎の町道場でしのぎを削ってきたロビンソンは当時、国際プロレスの外国人エースとして活躍し、「ヨーロッパ最強の男」と呼ばれていた。ロビンソンはこう振り返っている。
「私が第二回のワールド・シリーズを優勝して帰国する際に、ミスター・ヨシハラ(吉原功社長)から、『来年のワールド・シリーズに誰か実力のあるレスラーを見つけてブッキングしてほしい』と依頼されていた。カールをブッキングすることは、わざわざ自分の優勝に脅威となるレスラーを呼び入れることにもなった。だが、私とカールの対戦が日本のファンに喜ばれることは明らかだったし、『ゴッチをブッキングできるよ』と打診したときは、ヨシハラがすごく喜んでくれた」
こうしてゴッチは清掃員の仕事を辞め、1971年3月に国際プロレスに参戦し、「第三回IWAワールド・シリーズ」にエントリーした。
ビル・ロビンソンと5度対戦、モンスター・ロシモフ時代のアンドレ・ザ・ジャイアントをジャーマン・スープレックス・ホールドで投げるなどの活躍をしてみせたことで、ゴッチはプロレス界に完全復活を果たす。
47歳で復活したゴッチは自身のコンディションには絶対の自信があった。
ゴッチはレスリングを最も古く、最も難しいスポーツと考えており、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch As Catch Can, CACC)をレスリングの中で最強のスタイルとしている。打撃を含む総合格闘技に関しては一貫して否定的である。ゴッチの行うトレーニング方法はインドに由来するものが多い。レジスタンストレーニングとしてはフリーウエイトを使うことは好まず、自重によるトレーニングを多用している。マクチグが提唱した理論「マッスルコントロール」に傾倒しており著書『カール・ゴッチの肉体鍛錬哲学』では「人間は前に32個、後ろに28個の筋肉を持っている。彼は負荷器具を一切 使わずに、ある一つの動作に必要な筋肉だけに意識を集中させ、それを緊張させることで身体をつくったんだ」と述べている。
【カール・ゴッチ/wikipedia】
だからこそ、ゴッチはこんな名言を残している。
「レスラーにとって一番大切な事はコンディションだ!」
いくらいい武器を持っていても体調がよくなければ、その武器は錆びてしまうし、うまく作用しない。それがゴッチの持論だった。だから練習は怠ることは決してなかった。
その後アメリカWWWF(現・WWE)に参戦し、レネ・グレイとのコンビで1971年12月にWWWFタッグ王者に輝いた。だが、その一か月後、またしてもゴッチは日本との接点が生まれてしまう。
1972年1月、ゴッチの元に現れたのはかつての愛弟子・アントニオ猪木だった。猪木は"団体乗っ取り計画"を理由に日本プロレスから除名され、新団体「新日本プロレス」旗揚げに奔走していた。その猪木が頼りの綱としたのがゴッチだったのだ。
「猪木さんがニューヨークまでゴッチ先生にお願いに行った。あのときの猪木さんはアメリカの大プロモーターとの強いコネクションを持ってなかったですし、日本プロレスはアメリカ中のプロモーターに猪木さんとは接触するなというお触れを出したわけですよ」
【Dropkick「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……■「斎藤文彦INTERVIEWS⑤」】
ゴッチはWWWFを自主退団し、猪木に協力する道を選んだ。これ以来、、彼はアメリカマット界とは疎遠となった。現役レスラー、外国人招聘ブッカー、若手育成コーチの三役を担ったゴッチがいなければ今日の新日本プロレスは存在していない。
1972年3月6日東京・大田区体育館で開催された新日本プロレス旗揚げ戦のメインイベントはアントニオ猪木VSカール・ゴッチの一騎打ちを行い、リバース・スープレックスでゴッチが勝利している。また二人はゴッチが持ち込んだ"世界ヘビー級王座"を賭けてシングルマッチで対戦した。
この"世界ヘビー級王座"はフランク・ゴッチゆかりの最古の世界王座と紹介されていた。
また、ライバルであるルー・テーズと組んで1973年10月、蔵前国技館でアントニオ猪木&坂口征二と「世界最強タッグ戦」で対戦したこともあり、猪木がゴッチからジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールドでピンフォールを奪った。
初期の新日本プロレスの守護神となったゴッチは猪木との対戦で「実力世界一」と呼ばれた。フロリダ州タンパに移住した彼の自宅にあるガレージは新日本プロレスの若手選手を指導するために道場と化した。
藤波辰爾、長州力、藤原喜明、木戸修、佐山聡、前田日明、高田延彦といった猛者達を鍛え上げ、直接指導してきたのがゴッチだった。
若手最強を決める「ヤングライオン杯」の前身となる「カール・ゴッチ杯」が開催され、前座レベルの引き上げをはかり、ゴッチも𠮟咤激励と指導を行っていたという。
2015年8月18日、後楽園ホールで行われた悪性リンパ腫と闘う元UWF戦士・垣原賢人応援興行で、前田日明はリング上でこう叫んだことがある。
「ゴッチさんは『プロレスラーなんでしょう?』と言われたときにゴッチさんは『アイム、リアルワン』って言ったんですね。自分たちはその“リアルワン”の弟子なんです!」
自分達はただのプロレスラーではなく、リアルワンの遺伝子を継いだプロレスラーなんだという誇りが前田の発言からダイレクトに伝わってくるものだった。
ゴッチと猪木との関係は、新日本がWWFとの提携以降、徐々に見切っていくことになる。
「崖っぷちの猪木さんの頼みを意気に感じたゴッチ先生はWWWFをやめて、新日本のブッカーになったんですけど……あとから猪木さんとは疎遠になっちゃったんですよねぇ。猪木さんは大プロモーターになっていくし、WWFともつながっていく。ゴッチ先生が呼んでくるのはアメリカの南部の売れないレスラーばっかりですから、新日本としてゴッチ先生を必要としなくなった時期があったのかなあ、と」
【Dropkick「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……■「斎藤文彦INTERVIEWS⑤」】
実は新日本との関係が微妙になった頃、ゴッチは全日本プロレスに参戦する話が進んでいたという。1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦にビル・ロビンソとの”チーム・ビリー・ライレージム”を結成させようとしていた。その案を知った新日本は慌てて、ゴッチと交渉し、1983年1月1日の後楽園ホールに久しぶりに来日させて、藤原喜明とのエキシビションマッチを行った。この時、58歳を迎えていたゴッチはジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利を収め、1月8日の後楽園ホールで行われた木戸修戦がプロレスラーとして最後の試合となった。彼は引退を告げずにリングを後にした。
新日本と疎遠となったゴッチは1985年春に、前田日明、藤原喜明、高田延彦といったゴッチの弟子達が主力メンバーの格闘プロレス第一次UWFの最高顧問兼コーチとして招聘され、約三か月に日本に滞在することになった。
強くなりたいという者たち、みずからゴッチ道場の門をたたいた者たちには、ゴッチはわけへだてなくレスリングを教え、レスリングを説いた。
神様は、日本のプロレスラーのレスリングに対するまじめな姿勢をうれしく思い、ひょっとしたら、このレスラーたちならば現役時代のゴッチがひとりでできなかったことを実現させてくれるのではないか、と本気で考えるようになった。神様をその気にさせたのは藤原であり、佐山であり、前田であり、彼らが新しいリングに集いスタートさせたプロフェッショナル・レスリングの改革だった。そこにはたまたまUWFという団体名がついていた。
【“神様”カール・ゴッチ/日刊SPA・フミ斎藤のプロレス読本#053】
シリーズ中の地方興行にも同行、シリーズオフのあいだも毎日、世田谷区大蔵にあった道場にやってきて、「左ヒザが痛い」といいながらTシャツとジャージ姿で若手選手をコーチし、当時60歳だったゴッチさんが藤原、前田、高田、山崎らを相手にじっさいにスパーリングすることもあった。
(中略)
フロリダのゴッチさんの自宅で約半年間、修行生活を送ったことがある藤原は"神様"ととくに親しくて、ゴッチさんのレクチャーを聞き流しながら、たまにちいさな声で「うるせー、ジジイ」とつぶやいたりした。リングの上では前田、高田らにスパーリングでシメられるたびに新弟子たちが「ギャー」と悲鳴を上げていた。汗くさい練習着の臭いとチャンコ鍋の香りとがほんわかとただよう道場には愛が溢れていた。
【昭和プロレス正史 下巻 斎藤文彦/イースト・プレス】
ゴッチの凄さというべきか、ドラマチックなのは、自身が業界からフェードアウトしていても、時代が彼を必要としたところである。まるで"神様"が何かの”神秘的な力”で”プロレスの神様”をプロレスとの接点を繋ごうとしているかのようだった。ちなみにゴッチが日本で"プロレスの神様"と呼ばれていることはこの頃、ようやくアメリカのマスコミで伝えられるようになった。
ゴッチ自身がいくらトシをとっても、ゴッチからレスリングを学ぼうとする若者があとを絶たない。頑固一徹なレスリングの神様は、日本で"生きるバイブル"となった。
【昭和プロレス正史 下巻 斎藤文彦/イースト・プレス】
確かにゴッチに教えを乞う者は時代を越えても登場している。船木誠勝、鈴木みのる、石川雄規、西村修、中西学…。現代のプロレス界を支える男達の遺伝子の中にもゴッチが刻まれているのだ。
1988年に旗揚げされた第二次UWFとは距離を取っていたゴッチだったが、第二次UWFが崩壊し三派に分裂していく。(リングス、藤原組、UWFインターナショナル)
ここで再び、ゴッチの出番がやってくる。藤原組の最高顧問となり、日本に滞在し、船木や鈴木を鍛え上げたのである。船木と鈴木が藤原組から独立し、「パンクラス」という団体を旗揚げした。この団体名を生みの親はゴッチだった。
ゴッチは隠居してもトレーニング漬けの日々を過ごしていたという。
「ゴッチさんがなにより凄いのは、マスコミやカメラマンがいなくても、朝5時に起きてヒンズースクワットをやることなんですよ。それは自分の習い性というか、ボクがゴッチ先生の家に行ったときも、暗くなると寝て、明るくなると起きて、おじいさんなのに2000回のスクワットをやる。『なぜそこまでやるんですか?』と尋ねたら『俺は大食いだから。たくさん食べるし、たくさん飲むからこれくらいやらないとダメなんだ』と豪快に笑って。選手と同じトレーニングを一緒にこなすんですよね。そしてゴッチ先生は決して罵倒したりしないんですよ」
【Dropkick「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……■「斎藤文彦INTERVIEWS⑤」】
そして、ゴッチは自身の偉大さを決して誇張することはなかった。名声には無頓着で、自伝を出してほしいというオファーは「自分の伝記は誰も読まないよ」と断っていたという。彼はいくつになっても、どこまでもレスリングを追い求め続けた。
そんなゴッチにとって一番つらかったのは1996年のエラ夫人の死だった。ゴッチを支えた妻とゴッチは本当に仲が良かった。ゴッチはどんなにトレーニングを積んでいても、インタビューでレスリング論を熱く語っていても、エラ夫人の一言「やめて」でシュンとなって黙り込んでしまっていたという。ゴッチにとってエラ夫人は最愛の人だ。
「あの子は19歳、私は21歳。50年も一緒に過ごした。私にとってはエラだけが最高の勲章、たったひとつのチャンピオンベルトだった」
【みんなのプロレス 斎藤文彦/ミシマ社】
エラ夫人の死によって、ゴッチは自宅を売却し、アパートに引っ越している。大好きな日本は「飛行機に乗りたくない」という理由で、日本を訪れることはなかった。毎日、朝食前に二時間のトレーニングを積み、夜9時には就寝する。まるで修行僧のような生活を晩年になっても継続していた。いつしか、彼は"神様"というより"仙人"の域に達していた。ちなみに晩年のゴッチを世話していたのが、ゴッチの愛弟子だったジョー・マレンコと西村修だった。
2007年7月28日21時45分、ゴッチはフロリダ州タンパ市にてこの世を去った。死因は「大動脈瘤破裂」。享年82歳だった。
ちなみに亡くなる直前までトレーニングをしていたといわれている。"プロレスの神様"は生涯の終え方まで、レスラーのお手本となった。
ゴッチの死から3年後の2010年、彼の死を看取ったジョー・マレンコが全日本プロレスに久しぶりの来日を果たした。そこで晩年のゴッチについて語っていた。
「晩年のカールは自分の人生を振り返ることが多くなったんだ。最後に会った時も、そういう話を聞かされたよ。でも、彼は死ぬ時まで"カール・ゴッチ"だった。普通のレスラーは引退したら何もしなくなる。確かにカールもトレーニング方法は変わったよ。股関節を悪くしたり、手術を受けたりしたからね。方法はそれに合わせて変えていったけど、最後の最後までトレーニングをしていた。遺体を火葬したんだけど、遺灰のほとんどは以前に住んでいた家の近くの湖に流したんだ。でも、一部は僕が保管しているよ。だから、いつか彼にとって、日本の意味のある場所に埋めてあげたいんだ」
【表裏一体のプロレス兄弟船/ジョー・マレンコ&ディーン・マレンコ 俺達のプロレスラーDX】
ジョーの告白から7年後の2017年7月28日、ゴッチは遂に日本に帰ってきた。
2007年(平19)7月28日に82歳で亡くなったカール・ゴッチさんの墓が東京・荒川区の回向院に建立され、28日に納骨式が行われた。納骨式には「カール・ゴッチ墓石建立プロジェクト実行委員会」代表発起人の猪木と藤原、木戸、そして実務的な部分を担った文京区議会議員の西村修(45)の発起人3人をはじめ、前田日明(58)らゴッチさんの門下生を中心にレスラー、格闘家が参列した。ゴッチさんの墓は、松下村塾を開いた吉田松陰の墓の近くに建立された。ゴッチさんは亡くなるまでの数年、足が弱くなり来日することができず生前、猪木にあいさつしたがっていたが、かなわなかったという。そのことを知った西村が、ゴッチさんの死の直後、弟子のジョー・マレンコと話し合い、遺骨の分骨を決め、日本での墓の建立を発案。「人間の先祖は海から来た。海に帰さないといけない」というゴッチさんの遺志に従い、フロリダ州タンパの自宅近くのキーストンレイクに散骨し、残り1割の骨をマレンコが金庫に入れて保管。西村が関東中の墓を探したが、費用的な問題もあり計画が進まなかったという。16年に永代供養してくれる墓として回向院が浮上し、同9月に猪木に相談し、一気に建立の話が進んだという。
【アントニオ猪木ら出席、カール・ゴッチさん納骨式/日刊スポーツ 2017年7月28日】
ゴッチの納骨式には彼と疎遠となっていた猪木の姿があった。
猪木はゴッチの遺影にこう語りかけた。
「日本にプロレスの原点、強さの基礎になる、いろいろなことをゴッチさんが伝授してくれた」
ゴッチの石碑にはこのような言葉が刻まれている。
Karl Gotch
1924.8.3〜2007.7.28
Knownas God of Wrestling in Japan
カール・ゴッチ 本名:カール・イスターツ ベルギー アントワープ出身
来歴
1968年日本へ移住 日本プロレスのコーチとしてアントニオ猪木にストロングスタイルレスリングの確率を成さしめプロレスの神様と称された
言葉
Never lie, never cheat, never quit.
技術と精神は常に一緒だ
決して嘘をつくな 決してごまかすな
そして決して放棄するな
2017年7月吉日 アントニオ猪木 西村 修 他有志 建之
"プロレスの神様"と呼ばれた男のレスリングに人生を捧げた生涯は余りにもストイックである一方で、「強くなりたい」という欲求に対して妥協なく追い求めることで、頑固一徹と称されるようになった。元々も神様と呼ばれた男も最初は一介のレスラーに過ぎなかったのだ。ビリー・ライレージムで先輩レスラー達に打ちのめされたことで、彼は目覚めた。
「絶対に強くなる」
そのために愚直にトレーニングに没頭し、最大の武器である関節技を取得した。そのテクニックで「実力世界一」や「無冠の帝王」と呼ばれ、やがて日本で"プロレスの神様"として崇められ、時代の要請によってゴッチの存在は何度もクローズアップされてきた。「強さ」だけではプロレスラーとして大成することはできない。しかし、ゴッチはそれでも「強さ」にこだわった。そして、彼はプロレス界でスターになることを興味がなかった。あくまでも己が信条とする本流のレスリングを極めたかった。それがゴッチの生き様だった。
"青い目の宮本武蔵"カール・ゴッチが歩んだレスリング武士道は日本プロレス史、いや世界プロレス史における"偉大なる文化遺産"である。
「みんなに幸あれ。わたしは遠くからみていることにする」
【「私は神様ではない」“プロレスの神様”カール・ゴッチ名言集/日刊SPA・フミ斎藤のプロレス講座・第47回】
"プロレスの神様"は天国からプロレス界を厳しい目を見守っている。
そして、プロレス界は"プロレスの神様"が絶望する世界にならず、どんなに時代が変わっても彼が人生を捧げた本流のレスリングが継承されることを私は心から願っている。
【参考文献】
・日本プロレス事件史 vol.9/ベースボール・マガジン社
・日本プロレス事件史 vol.23/ベースボール・マガジン社
・DECADE(デケード) 1985~1994 プロレスラー100人の証言集(上下巻) 斎藤文彦/ベースボール・マガジン社
・プロレス入門 神がみと伝説の男たちのヒストリー 斎藤文彦/ビジネス社
・みんなのプロレス 斎藤文彦/ミシマ社
・外国人レスラー最強列伝 門馬忠雄/文藝春秋
・詳説 新日イズム 流智美/集英社