P-4Mの天然記念物~新日本エース候補筆頭だった和製ヘラクレス/中西学【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第180回 P-4Mの天然記念物~新日本エース候補筆頭だった和製ヘラクレス~/中西学
 

 
2003年6月29日 立ち技格闘技「K-1」さいたまスーパーアリーナ大会。
 
この日、男は本来なら立つべきでないリングに上がっていた。
当時の日本プロレス界は「プロレス最強神話」は崩壊し、格闘技の波に飲み込まれていた暗黒期。その中で男は無謀にもK-1ルールに挑んでいた。
 
総合格闘技ならまだ理解できるが、立ち技のみのK-1ルールにプロレスラーが挑むのは、打撃を得意にしている選手なら勝機はあるかもしれない。立ち技経験ゼロのプロレスラーが挑むのは今思えば、愚の骨頂だったのかもしれない。負けるべくして負けにいき、プロレスのブランドをただ下げるだけの行為が「格闘浪漫」という言葉で片付けられていくのが、当時の状況だった。後に分かったことだが、男をかつて打撃を指導したボクシングトレーナーによると、打撃に不向きで、センスのかけらもなかったという。もし、今の時代だったら、団体側はこんな無謀な挑戦を止めさせていただろう。
 
やはり、男は1R1分38秒、ニュージーランド・マオリ族最強の男TOAにKO負けを喫した。男のレスラー人生においては"黒歴史"と称され、男が所属していた団体の名誉は傷つき失墜した。
 
男の名は中西学。
ストロングスタイル・新日本プロレスに所属するプロレスラー。
人は彼を「野人」と呼ぶ。
そして、彼こそ新日本プロレスの次期エース候補筆頭で、結局エースになれなかった男なのだ。
「K-1」での敗戦はエース候補から完全脱落を決定的なものにする出来事だった。
 
今年(2017年)でデビュー25周年を迎える中西はバルセロナ五輪レスリング日本代表という確固たるレスリングの実績と186cm 120kg(一時期は140kg)の恵まれた体格、「和製ヘラクレス」と形容される岩の如く頑丈な肉体と規格外のパワーファイトで新日本プロレスで活躍する怪物。そして、橋本真也、武藤敬司、佐々木健介とエースの座を託してきた、新日本現場責任者である長州力が1999年から2001年にかけて次期エース候補筆頭として見定めていたのがこの中西学である。

今回は四半世紀に渡りに新日本プロレスで闘い続ける彼のレスラー人生を追うことで次の二つのテーマに挑みたい。
 
「なぜ、彼はエースになれなかったのか?」

「なぜ、彼はエースになれなくても新日本に残り続けたのか?」

中西学は1967年1月22日京都府京都市に生まれた。
 彼の実家は300年以上続くお茶農家で、京都ではかなり有名なお茶農家だという。小学校の時から彼はプロレスファンだった。新日本プロレスも全日本プロレスも両方見ていた。アントニオ猪木とジャイアント馬場は少年時代の中西にとってヒーローだった。
実は中西は運動が苦手だった。おまけに勉強もダメ。野球をやってもサッカーをやってもダメ。運動ができず孤立していき、取っ組み合いの喧嘩を起こすと大人には叱られる。
 
友達にはよくこう言われた。
 
「学と遊ぶと何でもプロレスになるから嫌だ」
 
次第に彼は孤立していく。
 
「何をやっても俺はダメだ」
 
自分自身にコンプレックスを抱えていた少年時代を過ごした中西。そんな彼にとっての味方は優しい父親だった。
中西は父親から言われ、子供の時から家業の手伝いをしていた。農作業と学生時代から学校までの6kmを往復することで後々の強靭な下半身の源を築いた。
 
父親は中西にこう言った。
 
「お前は勉強もできないし、教えたことはすぐ忘れるけれど、忘れないことが1つある。約束だけは守れる。生きていく上で、約束を守ることが一番大事だぞ!」
 
この言葉を中西は今でも忘れない。
 
中西は高校進学と共にレスリングを始めた。プロレスラーになるためではなく、ダメな自分自身を変えるためだった。

 だがここでも団体生活に苦しんだ。
練習はきつくてやめようと何度も思った。
それでもダメな自分には戻りたくなかった。
 
「レスリング部の顧問は皆が怖がる鬼のような先生で、今度は父親に代わってその先生からかなり鍛えられました。1年生の時はまったくダメでした。毎日4時間の練習も部員が14人しかいないので、メチャクチャきついのです。何度も辞めようと思いましたが、自分が辞めたら、連帯責任でみんなに迷惑がかかると思って、なんとか3年まで続けることができました。父親はまだ『高校を卒業したら農業をやれ』と言っていましたが、高校最後の年に全国大会で個人2位に入り、大学からのスカウトが来ると、とても喜んでくれました」
【今の自分がいる理由 中西学~リレーでつなぐハートの話~/船井幸雄.com】
 
専修大学進学後は、レスリングで日本トップクレスの実力者となった中西は高校時代に叩きこまれたタックルを武器に重量級レスラーとして活躍していく。1987年のレスリング全日本選手権フリースタイル100kg級優勝を皮切りに、1989年から1992年にかけてレスリング全日本選手権フリースタイル100kg級4連覇を果たす。
 
大学卒業後は和歌山県庁を経て、1991年に新日本プロレスが運営するレスリングクラブ「闘魂クラブ」に入団。新日本のバックアップによって海外に渡り、外国人選手とスパーリングをすることで、成長を遂げ、1992年のバルセロナ五輪レスリングフリースタイル100kg級日本代表となった。
 
レスリングで自分の強さに自信がついた中西は闘魂クラブに入る決断には「ゆくゆくプロレスラーになる」という大志を抱いていた。野毛の道場でのプロレスラーの姿をみて、彼は確信する。
 
「これは俺に向いている」
 
バルセロナ五輪出場後、帰国した中西は「G1CLIMAX」両国大会のリングに立っていた。そこで中西のプロレス転向が発表された。1992年8月、中西は新日本プロレスに入団した。
 
「俺の2代目ができた。やっとレスラーらしい奴が入ってきたよ」
 
中西が憧れていたプロレスラーであるマサ斎藤はこう言ったという。
 
プロレスのトレーニングを始めてから2か月後、中西は同年10月SGタッグリーグ戦に急遽、藤波辰爾のタッグパートナーに大抜擢されることになる。(元々、藤波のタッグパートナーはビッグバン・ベイダーだったが、欠場)
 
1992年10月13日東大阪市立中央体育館大会の公式リーグ戦でスコット・ノートン & スーパー・ストロング・マシン組を相手にデビューを果たした中西は160kgの巨漢ノートンを水車落としで叩きつけるインパクトを残す。紫色のダブルショルダータイプのアマレスタイツとヘッドギアというアマレススタイルで挑んだ中西は水車落とし、タックル、、フロント・スープレックスといったアマレス殺法で挑むも、強豪チーム達の壁は高く、全戦全敗に終わった。それでも最終戦で、長州力&橋本真也という最強チームに挑んだ中西は、橋本の爆殺シューターを顔をクシャクシャにさせながら堪え続けた。
 
中西にプロレスを教えたのはロサンゼルス五輪レスリング・グレコローマン日本代表・馳浩。彼がお手本にしているレスラーがこの馳である。
 
「お手本としたレスラーは馳さんですかね。よく練習していましたよね、あの人は。(中略)俺らのことをコーチするだけじゃなく、自分でもやる人でしたからね。そういう指導者は、下の者からすると尊敬できますよね。それまでは、先輩から盗めという教えだったのを、馳さんの時代から先輩が手取り足取り教えてくれるようになったんです。それまで何も教えてくれなくてただただキツい練習をやらされるだけだったのがね」
【週刊プロレスモバイル 中西学インタビュー(2008年7月)】
 
中西がデビューした年代は新日本の黄金世代。1990年から1992年までに新日本でデビューした選手の事を「第三世代」と呼ぶ。そして、彼等の時代は毎試合毎試合、前座で組まれるカードは限定されていて、大会によって弾かれる若手も多かった。
中西と同じく1992年デビュー組の大谷晋二郎はこう語る。
 
「今の選手と僕らの時代の決定的な違いは、みんな試合があって当たり前だと思っていることなんですよ。僕らの頃は、第一試合のたった1枠を争っていた。2人しか試合ができないんですよ。中西さんはちょっと別格なところがあったけど、一個上の小島さんも含めて、永田、石澤、高岩、大谷でその枠を争っている。今はどこの団体も事前に全部カードが発表されるじゃないですか?でも僕らの頃なんか、前の方の試合は会場に行って初めて分かる。(中略)まず試合を組んでもらうために命懸けで頑張ることが必要だったから。そこで試合を組まれたときの嬉しさって言ったらもう堪らない」
【元・新日本プロレス「人生のリング」を追って 金沢克彦/宝島社】
 
大谷の証言もあったが、第三世代の中でも中西は鳴り物入りでプロレス入りしているため、エリートだった。アマレススタイルから黒のショートタイツに変え、短髪やモヒカン刈りから長髪、髭面にイメージチェンジすると、未来のスター候補を思わせるようなオーラが出てくるようになった。ちなみにこの頃の十八番はアトミックドロップからのジャーマン・スープレックス・ホールドだった。
アルゼンチン・バックブリーカーで先輩レスラーを破り、ヤングライオン杯では初出場の1993年では3位という成績を収め、1994年には決勝に進出し、小島聡と名勝負を展開し、敗れ準優勝。悔し涙に濡れた。
 
そして、中西の肉体はプロレス入りすると磨きがかかり、見事にビルドアップされたものに変貌。使用する技もアルゼンチン・バックブリーカーを十八番にし、ジャイアントスイング、カナディアン・バックブリーカー、ハイジャック・バックブリーカー、ネックハンギング・ツリー、スイング・コブラクラッチ、ラリアットといったパワーファイターらしい大技が多くなる。
 
だが、不器用な中西は、試合運びがどこかぎこちなく、ドタバタしていたように思う。またどこかに気の優しさが試合に出ていて、非情になれない部分ものぞかせた。彼の試合には一部の観客から。「しょっぱい」、「もっと攻めろ」、「不甲斐ない」といったヤジが飛ぶこともしばしば。それでも期待せざる追えないものを彼のポテンシャルに感じさせた。
 
1995年3月にヤングライオン杯を優勝を果たし、同年7月からアメリカWCW遠征に旅立った。WCWではクロサワというリングネームでヒールとして活動した。このクロサワというリングネームはマサ斎藤が「世界に通用する男だから世界に通用するリングネームを使え」という想いを込めて、名付けられたものだった。マサ斎藤は当時、新日本の海外担当で、テレビ解説者も務めていた。
カーネル・ロブ・パーカーをマネージャーとなり、元トンガ力士のミング(キング・ハク)をパートナーにして、エリック・ビショフWCW副社長が期待をかけた日本人ヒールとなる。黒のショートタイツに、黒のロングコート、黒のヘッドバンドを身にまとった中西だったが、ある試合で生放送中にホーク・ウォリアーの腕を折ってしまい、その影響もあってから試合があまり組まれなくなった。言わば干されたのだ。試合に組まれないから、とにかく肉体を研ぎ澄ますために、トレーニングは続け、彼の肉体は更なる進化を果たす。
ちなみにWCW遠征中に彼が自身が目指すプロレスラー像としてブルーザー・ブロディを挙げている。
 
「絶対、俺が武藤敬司みたいになれるわけないじゃないですか。でも、ブルーザー・ブロディには突き詰めればなれるかもしれない。これは生半可な気持ちじゃないですよ。本当に大変なことだろうけれど、あのスタイルが好きなんでやっぱり目指したいんですよ。今もビデオを見たりするとブロディってそんなに技を出していないんですよね。バチバチ殴られているわけでもないんですけど近寄るだけでやられてしまうような…殺気ですよね」
【週刊プロレスモバイル 中西学インタビュー(2008年7月)】
 
1996年9月に1シリーズだけ「クロサワ」という名前で凱旋帰国を果たした中西は試練の7番勝負で、長州力とリック・フレアーをアルゼンチン・バックブリーカーで破る大金星を挙げ、同年10月より中西学にリングネームを戻す。10月のSGタッグリーグ戦は同世代の小島聡とコンビを結成する。小島とのコンビは若さゆえにギクシャクすることもあったが、荒削りながらもパワー溢れるファイトで新風を吹き込んだ。やがて、小島とのコンビは「ブル・パワーズ」と呼ばれるようになる。
 
ちなみに1996年新日本最後のビッグマッチとなった12月10日大阪大会のメインイベントを務めたのは中西だった。当時のIWGPヘビー級王者・橋本真也とのノンタイトル・シングルマッチ。試合には敗れたが、この試合のハイライトは中西が長時間アルゼンチン・バックブリーカーで橋本を担ぎ上げているシーンだった。
 
1997年5月3日大阪ドーム大会で中西は小島とのコンビで長州力&佐々木健介を破り、IWGPタッグ王座を獲得する。これがレスラー人生で初のタイトル獲得だった。
 
関係者や現場責任者の長州力が中西に期待しているんだと伺えるマッチメイクが続くものの、なかなか中西は突き抜けることはなかった。一時期は黒から白のショートタイツに変更したこともあった。それでもなかなか浮上せずに黒のショートタイツも戻したりもした。またケンドー・カシンには散々、「バカ」と挑発されたり、その単純でワンパターンなプロレスを展開する中西には課題が多かった。

解説者のマサ斎藤は何度も口が酸っぱくなるほど、言っていた。
 
「中西は何かきっかけをつかめば、とんでもないスーパースターになる」

中西はパワーファイターとしてさらに磨きをあげていく。ベアハッグで抱えて絞り上げた上で、フロント・スープレックスで投げる荒技やアルゼンチン・バックブリーカーで抱えた状態でリング外を徘徊する姿は「闘う引っ越し業者」と形容された。また、アマレス時代に培ったタックルも使うようになる。この頃はWCWでビル・ゴールドバーグが連勝記録を更新していた時期で、スピアーと呼ばれる豪快なタックルが猛威を振るっていた。タックルなら中西は負けるわけにはいかない。
荒々しい風貌とファイトスタイルから彼は「野人」と呼ばれるようになる。

1998年12月4日大阪大会で中西はスコット・ノートンが保持するIWGPヘビー級王座に念願の初挑戦。"超竜"ノートンのパワーに対抗できるのは日本の恐竜である中西しかいない。ノートンに真っ向勝負を挑むも、轟沈することになった。だが、その敗れ方は一種の爽やかさがあった。
 
ちなみにどうにかして中西をブレイクさせたい新日本は1999年4月10日の東京ドーム大会で"400戦無敗"のヒクソン・グレイシーとの異種格闘技戦をマッチメイクする計画を立てていたという。ヒクソンは高田延彦に2連勝を果たし、当時格闘技界最強の男と言われていた。中西はヒクソン戦に向けて、大学レスリング部の出稽古に通ったり、体重を絞ったりしていた。だが、このヒクソン新日本参戦のプランは立ち消えに終わった。
 
そして、遂に彼はチャンスをつかんだ。
1999年のG1CLIMAXで、ノーマークだった中西は大躍進。最終戦では橋本真也をマフラー・ホールドでギブアップ勝ちを収め、決勝戦では当時のIWGPヘビー級王者の武藤敬司をアルゼンチン・バックブリーカーで破り、見事に初優勝。あの1991年の第一回での蝶野正洋がまさかの優勝を果たして以来のサプライズだった。
 
1999年から新日本には次世代を担う男達が勢ぞろいしていた。天山広吉、小島聡、中西学、永田裕志。それぞれが海外遠征で逞しく成長して帰国し、己の立ち位置を作ってきた。第三世代と呼ばれ、新世代四天王ともいえるこの4人の中で、真っ先にG1を優勝した中西は現場責任者の長州力が未来のエース候補筆頭として捉えていた。未来を見据えた男達の攻防は始まり、天山&小島VS中西&永田はタッグ版の名勝負数え歌として多くの作品を残してきた。
 
1999年8月28日神宮球場大会で永田裕志と組んで、後藤達俊&小原道由を破りIWGPタッグ王座を獲得する。永田とは若手時代から石澤常光と三人で"アマレス三銃士"と呼ばれてきた。このコンビは永田曰く、「鉄人28号と操縦者・正太郎」の関係だという。永田が中西をうまくントロールしていくの二人のコンビネーションだった。
 
1999年10月11日に東京ドームで武藤敬司が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦。黒のフード付きガウンを身にまとい、オールバック姿となった中西は武藤を追い込むも、武藤の横綱相撲を崩すことはできず、腕ひしぎ十字固めで敗れた。
 
G1は優勝したが、この勢いを持続できない。
そしてチャンスを自ら奪い取ることを彼はしなかった。
 
例えば、こんな話がある。
世紀末当時の新日本では"天敵"となったのは"暴走王"小川直也。橋本真也を何度も地獄へ叩き落してきた小川を誰が止めるという話題が出てくる。新日本でプロレスではないシュートを仕掛けプロレス界や格闘技界でのしあがっていった小川をこのまま勝ち逃げさせるわけにはいかない。「ストップ・ザ・小川」の最有力候補として挙がったのが小川と同じくバルセロナ五輪日本代表となった中西だった。
 
しかし、中西はこう言って突っぱねた。
 
「俺はやらない。小川にリベンジするのは橋本の兄貴なんや!」
 
もしここで、橋本を押しのけてでも「俺が小川とやって橋本さんの仇を獲る」と行動を起こしていたら、彼は小川に変わって時の人となり、スーパースターになっていたかもしれない。それができなかったのはやはり彼の優しさだったのかもしれない。これはプロレスラーとしていいことではない。後に小川との対戦はタッグながら実現したり、小川にターゲットにしていたこともあったが、どこか時期を逃した感もあった。"旬"の獲物は、賞味期限が切れてから食べても美味しくないものである。
 
「性格が悪い人。いい人は向いていないと思います。闘いの中で優しさが出ちゃいますから。みんな『俺が一番だ』っていう世界ですからね。じゃないと上にあがれないですよ」
 
オカダ・カズチカは「プロレスラーに向いているのはどんな人ですか?」という問いにこう答えたという。実に的確である。
もしかしたら、中西の性格はプロレスラー向きではないのかもしれない。
 
2000年4月、中西は永田裕志が発起人となった新ユニット「G-EGGS」に参加する。メンバーは中西と永田以外には吉江豊、福田雅一がいた。だが、軍団結成早々に、福田がリング渦に巻き込まれて急死。福田の意思を継いでブライアン・ジョンストンが加入する。だが、このユニットはなかなかブレイクせずに、1年後に解散することになる。
 
2001年。
橋本真也が独立し、ゼロワンを立ち上げ、佐々木健介がエースとして支えていた新日本は、未来を担う男達の決起が待望論が渦巻いていた。その中で自然と序列はできていた。中西が次期エースになっていくという序列が。だがこの序列を崩そうとしたのがパートナーを務めていた永田裕志だった。永田は人を押しのけてでも、チャンスを行動を起こして掴む男。中西にはない性格の持ち主だ。
 
「このままでは俺はトップに立てない。どうにかしなければ…」
 
 だから2001年に入って永田はこれでもかと行動を起こしていく。ゼロワン旗揚げ戦の橋本真也のタッグパートナーに名乗りを上げ、プロレスリングノアの三沢光晴&秋山準と対戦。試合を通じて秋山と志を共にした永田は、藤田和之とのIWGP戦に秋山をセコンドに帯同させ、10月の東京ドーム大会で秋山とタッグを結成し、武藤敬司&馳浩と対戦。さらに8月にG1CLIMAX初優勝、12月31日「猪木祭り」さいたま大会でK-1のミルコ・クロコップと対戦と、縦横無尽に大活躍を果たし、その効果があり、序列を見事に破壊してみせ、中西に代わり、次期エース候補筆頭に躍り出た。
 
永田の勢いに後退した中西は永田と同じく格闘技路線に走るも、これがどうも違和感があった。2001年7月20日の札幌ドーム大会で"PRIDEの番人”ゲーリー・グッドリッジに敗れてから、オープンフィンガーグローブに慣れるためにボクシングの特訓を始めた中西だったが、トレーナーからはこんな烙印を押されたという。
 
「あまりにも打撃向きではなく、センスがない」
 
作家の内館牧子氏はこのように評している。
 
「彼がグローブをつけて闘う姿に違和感を覚える人は正しい。ボクシングの練習なんかしないで、大昔の鬼のようにブンブン暴れて! と願う人は正しい。人間技を取り入れるとチマチマして見えるのは中西ぐらいだろう」
【プロレスラー美男子烈伝 内館牧子/文藝春秋】
 
迷走する中西は2002年になると、"プロレスの神様"カール・ゴッチを師事するようになり、ゴッチ直伝のジャーマン・スープレックス・ホールドを武器にするようになる。髪型も短髪となり、独特の関西弁から標準語で話すようになる。これもうまくいかなかった。特にマイクパフォーマンスでたどたどしい標準語で話す中西にはかなり違和感があったものである。秋山準の発言が全てを物語る。
 
「だいたい京都弁まる出しの人が、無理して標準語でしゃべっていることじたい気持ち悪い」
 
2002年10月14日東京ドーム大会で当時の格闘技界を席巻していた"野獣"ボブ・サップが新日本に参戦。野獣を迎え撃ったのは中西だった。サップのパワーを受け止め、リングアウト負けを喫したが、サップがこれまで展開してきたプロレスの試合の中ではこの中西戦がベストバウトだった。
 
もう中西をエース候補筆頭と呼ばれることはなくなった。現場責任者の長州力は新日本を去った。永田裕志がIWGP長期政権を築く中で、どんどん迷路に迷いこんでいく中西。
 
2003年、中西は再び格闘技路線に踏み切ることになる。
5月2日東京ドーム大会で藤田和之と総合格闘技ルールで対戦することになった。中西はこの試合に向けて、格闘家のエンセン井上が運営するPUREBRED大宮に寝泊まりして総合格闘技のトレーニングを重ねた。エンセンは真面目に誠実に練習を打ち込む中西を買っていた。
エンセンは中西をこう称える。
 
「みんな中西さんのことをバカだバカだと言ってるけど、中西さんは子供みたいに素直なんだよ。子供はあまり作戦なんか考えない。言われたとおりにやれと言ったら、その通りにやる。中西さんは大人でいながら、子供の心を大事にする部分を持っているね」
【日本プロレス事件史 vol.26(ベースボールマガジン社)】
 
実は中西が格闘技路線に進んだのにはこんな意味があったという。
 
「早急なIWGP王座挑戦&近い将来の中西路線」
 
これはエース候補筆頭と呼ばれた男の賭けだったのだ。
中西は中西を格闘技路線に導いた当時新日本マッチメーカーである上井文彦氏にこう言ったという。
 
「上井さん、僕はやりますよ!会社のためですから!必死にやりますよ!」
 
上井氏にはこんな構想があったという。
 
「総合格闘技の経験を経て、中西を日本のブロック・レスナーにしたい!」
 
プロレスが大好きで、プロレスがしたくてたまらない男が新日本のために、プロレスのために、格闘技路線を進んだのだが、結果は振るわない。5月の藤田戦に敗れた中西。そして、あのK-1参戦の話が来るのである。
 
これは打撃が決定的に欠点がある中西にとっては負け戦。
だがそれでも中西はK-1参戦を了承したのだ。
彼の中にはこんな意義を強引に見つけていた。
 
「21世紀のプロレスは俺が作っていかないと思っている。バーリ・トゥードを吸収したい。それを進化した新日本のキング・オブ・プロレスリングというものにしていく。格闘技の一番強いものをプロレスが見せていかないと。プロレスが一番強いんだと。痛みを伴わないと得られないものがある。絶対にある。俺はそれに気づいた」
【日本プロレス事件史 vol.26(ベースボールマガジン社)】
 
だが、無情にも中西のK-1挑戦は1RKO負けで終わった。こうして中西の格闘技挑戦は幕を閉じた。
「早急なIWGP王座挑戦&近い将来の中西路線」という淡い約束も果たされることなく…。
 
「お前が俺の考えを感じ取っていれば、お前の天下は早く来たかもしれない」
 
アントニオ猪木は中西にこう言ったらしいが、果たして現実は…。
 
同年8月のG1CLIMAXに急遽エントリーした中西はリング上で打撃の練習を繰り返してた。その光景を周囲の選手達は冷ややかな目で見ていたという。屈辱にまみれた元エース候補筆頭。そこには敗れし者の寂寥感があった。
 
「なぜ、彼はエースになれなかったのか?」
 
格闘技の波に飲まれてしまったことも要因だが、やはり彼はプロレスラーとしてはあまりにも正直で優し過ぎた。性格の良さが周囲を押しのけてもトップに上がるという野心を抱くことができなかった。これが最大の要因だった。
 
2004年になると反体制に回り、シングルプレーヤーとなった。自らを「海賊(パイレーツ)」と名乗るも、ここでも空回りが続く。プロレスラーになる前に克服したはずの「何をやってもダメな自分」がここにきてレスラー人生に暗雲が立ち込める。

腐っていたこともあったり、凹んでいたこともあった。格闘技の波に飲まれて、観客動員に苦しむ暗黒期の新日本プロレス。東京ドーム大会の多くのチケットが無料でばら蒔かれていく悲惨な状況。ついには不渡りまで起こした。多くのレスラー達はそんな新日本を次々と離脱していく。


それでも新日本を辞めることはしなかった。
 
「なぜ、彼はエースになれなくても新日本に残り続けたのか?」
 
中西はこう語る。
 
「いい意味でも悪い意味でも俺、新日本しか知らんから。それが最大の理由だと思います。敵としてはいろんな団体と当たることで知ることができましたけど、じゃあその団体に入ったら新日本の選手と闘えるかっていったら闘える保証はないでしょ。やっぱり新日本のプロレスが違いますから、新日本のレスラーと闘えることは大きいですよ」
【週刊プロレスモバイル 中西学インタビュー(2008年7月)】

 
かつて柴田勝頼がこんな名言を残している。
 
「新日本を辞めることが俺の新日本だった」
 
ならば中西の場合は「新日本を生き残ることが、俺の新日本」だったのだ。
 
2005年から一年間。永田裕志、藤田和之、ケンドー・カシンと「チームJAPAN」を結成し、大暴れ。ここらあたりから彼は吹っ切れるようになる。
 
「もう何を考えずに、本能のままにリングで暴れる」
 
野性を解放し、本能のままにプロレスをすると、中西の味が出てきた。アルゼンチン・バックブリーカーからネックブリーカーで叩きつける「ヘラクレス・カッター」、アルゼンチン・バックブリーカーからジャーマン・スープレックス・ホールドで投げる「マナバウアー」、まるで野球のホームランバッターのように振りかぶって両手でぶっ放す「一本足ハンマー」、ロープの反動を利用してジャーマン・スープレックスで投げてから、もう一度ジャーマン・スープレックス・ホールドで投げる「大★中西ジャーマン」…。
 
それは中西にしかできない、中西にしか独特のプロレススタイルだった。エース候補から脱落するとようやく自分のプロレスができるようになった。不器用なら不器用、バカならバカを隠さないで、それを武器にすればいいのだ。バラエティー番組に出るようになって、天然キャラを隠さなくなったことも大きかったように思う。この頃から実況では「ゴリラ」、「ゴリラーマン」と形容されたりするようになる。
 
40歳を過ぎた中西。
IWGPヘビー級王座は永田裕志、天山広吉に先に越され、巻くことなく日々を過ごしていた。そして、第三世代は誰も新日本のエースにはなれなかった。結果的に棚橋弘至、中邑真輔といった男達の踏み台になっていた。
 
そんな中西にラストチャンスが訪れる。
踏み台にも、踏み台の意地がある。
 
2009年5月6日後楽園ホール大会。
中西は棚橋弘至が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦した。これが実に6度目の挑戦。当時は棚橋はIWGP三度戴冠し、第三世代が誰もなれなかったエースの座につく新時代の旗手。中西は見事にリフトアップ式ギロチンスローからのジャーマン・スープレックス・ホールド「特大★中西ジャーマン」で棚橋を破り、悲願のIWGP王座を戴冠する。場内は大熱狂。セコンドの永田を抱き合う中西は泣いていた。
42歳で掴んだ新日本の頂点の座。
 
「エースになれなかった俺が一日くらい報われてもいいじゃないか!」
 
そんな男の執念が身を結んだ。
 
試合後、中西はマイクで語った。
 
「ありがとうございます。本当に、中西学を今まで見捨てずにいて頂き、ありがとうございました!(『解説席で山本小鉄さんが涙を流していました』)あり がとうございました。足もそうですけど、体全体がダメになってます。やっぱりチャンピオン(棚橋)は凄いですね。せやけど、今日から俺がチャンピオンとい うことで、守らなアカンもん、背負わなアカンもんが分かりました。ただただ、今日は皆さん、本当にありがとうございました! これに自惚れることなくですね、また一生懸命やっていきますのでよろしくお願いします!(中略)ここは1つ、このベルトのこと を噛み締めたいと思います。これからも中西学と新日本プロレスをよろしくお願いします。ありがとうございました!」
 
そして、控室でこれまでのレスラー人生を振り返る。
 
「前向きにやって腐っての繰り返しでした。口ではいつもカッコいいことを言っているんですけど、1人になってみるとネガティブなことを考 えて、それやったら練習してた方がエエと。体を鍛えるっちゅうのは、余計なことを考えんでいいんで。俺は足腰が立たんようになるまでプロレスをしたいですから」
 
中西のIWGP戴冠を喜んだのは、彼に期待をかけていたマサ斎藤だった。マサ斎藤はこんなメッセージを送った。
 
「お前がプロレスに対してまじめに取り組んでいることは、横から見てわかっていた。俺はそれに応えてやりたいと思っていたんだ。IWGPおめでとう。会場に人を呼べるチャンピオンになれ、そして世界で活躍しろ」
【中西学の目に涙 マサさんから激励受ける/多重ロマンチック】
 
中西はこのメッセージに涙を流して喜んだという。
一度も防衛できずに棚橋に明け渡したIWGP王座だったが、これは神様が中西に与えたご褒美だったのかもしれない。
 
だが、神様は中西に大きな試練を与える。
 
2001年6月4日、中西はタッグマッチにて試合中、井上亘の放ったジャーマン・スープレックスを受けて首からマットに突き刺さり、リング上で動けなくなり病院へ搬送された。検査の結果、「中心性脊髄損傷」と診断され、命に別状はなかったが長期欠場に追い込まれる。10月7日に手術を行なった。
【中西学/wikipedia】
 
引退という二文字が頭によぎる。
それ以上に普段の生活にも影響が出るかもしれない。
医者からこんな宣告を受けた。
 
「最悪寝たきり、良くても車椅子」
 
それでも彼は引退をしなかった。
だから必死にリハビリに励んだ。
同年12月24日の後楽園ホール大会に姿を現した。万雷の中西コールが彼を包み込む。
 
「すみません。ホントに長いあいだ休ませていただきまして、皆さんにご心配をかけまして、そしてまた、たくさんの皆様にご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした(※大拍手)。もう考えることは、早く、早くリングへ上がって、闘いたい。その気持ちがいっぱいで。だけど、ホントにケガしてみてわかったことというのは、いままでやってきたことって、凄く大変なことをやってきたんやっちゅうのがわかりました。いま、はっきり言って、アスファルトの上を軽く走るのがやっとなところなんです。たしかに、いま皆さんに(VTRで)リハビリを見てもらって、普通の人に比べてみたら『かなり回復してる』って言うかもしれませんけど、レスラーとしては本当にまだ一歩も前進してないようなところなんです。ですが! やはり中西学が帰ってくるところは、リングしかありませんから(※大拍手&中西コール)。ありがとうございます! どのぐらいかかるか? できるだけ早く、皆さんの前に、元気な体で力一杯、精一杯、闘えるように、戻ってきますので、その日までよろしくお願いします!(※大拍手&中西コール)」
 
新日本の三沢威トレーナーはこう語る。
 
「中西の場合は1回足がピクリとも動かないくらい麻痺してたんで。そこから復帰となるとかなり奇跡的なことだと思います。正直、絶対無理だと思ってましたからね。もちろん本人には言わなかったですけど(笑)。いまはもうロープワークもやってるし、軽くですけど技も若手にかけたりしてる。現実的なものになってますよね、復帰が」
 
そして、中西が奇跡の復活を果たす。
2012年10月8日両国国技館大会で中西は永田裕志とストロングマンと組んで、矢野通&飯塚高史&石井智宏を相手に復帰戦を迎える。
 
「危険と隣り合わせで、それでもやるのがプロレスっちゅうか。やっぱり好きで好きでしゃあなくて入った世界ですからね。入場して顔出た瞬間、思いっきりお客さんから"ガンバレ"って言われたら。"イケーッ!"って言われたら、もう体が動くんよ。コワい世界やけどね。さっきまで僕、カラダ動かへんかったのに、どれだけカラダ傷んでて、そういうの(頚椎損傷)なってんのにバカじゃないのって言われるかもしれないけど、バカでもいいんですよ。」
【ワールド・プロレスリング2012年10月27日放映分・中西学復帰戦煽りVTRより】
 
俺はバカでいい。
バカを極める。
バカ正直でいいじゃないか。
そんな中西の一途なプロレスへの想いが壮絶な生き様として人々の心を打っていた。
 

「"プロレスバカ"って言ってご自分で言ってたんですけど。変わってないですか?」という質問に中西はこう答えた。
 
「変わってないっちゅうか、バカ通り越すかもしれへんけどね。今度の試合は。…それでいれたら、幸せだと思いますよ。プロレスバカでいれたら、幸せだと思います」
【ワールド・プロレスリング2012年10月27日放映分・中西学復帰戦煽りVTRより】
 
プロレスバカでいられたら、俺は幸せなんだ。
思えば、彼にとってプロレスは心の支えであり、ダメで孤立していた自分の友達だった。
だからプロレスだけは絶対捨てたくない。
 
復帰戦は見事に務めた中西は泣いていた。パートナーの永田も泣いていた。多くの観客も涙していた。
 
「プロレスの試合で、観客を興奮させることはできても、泣かせるのはなかなかできるものじゃない」
 
ミスタープロレス・天龍源一郎が言うように、彼は人を泣かせる試合を展開して見せた。これは団体のエースになってもなかなかできるものじゃないのだ。
 
中西学は今年(2017年)で50歳を迎え、デビュー25周年。
デビューしてから夢だった「50歳を越えてもプロレスをしたい」という目標を達成した。だがこれがゴールではない。新日本プロレスが奇跡の復活を果たし、自らも引退の危機を乗り越えてみせた。体調管理を務めながら、彼は今宵もリングに上がる。
 
「人生はプロレス。リングはその人を映し出す。いろんなメジャー選手も見てきた。レジェンド選手にも会ってきた。その経験から言えるのは『生き方がつまんない人は試合もつまんない』ということ」
【「生き方がつまんない人は試合もつまんない」DDTを率いる高木三四郎の“人生プロレス“/AbemaTIMES】
 
DDTプロレスリング大社長・高木三四郎が残した名言を最も体現したレスラー人生を送ってきたのは中西学ではないだろうか。
 

ダメ人間だった自分を変えるために始めたレスリングで頭角を現し、オリンピック日本代表となったレスリングエリート。
鳴り物入りでプロレス入りし、新日本のエース候補筆頭として期待されるも、最終的には脱落した悲劇の男。
だが、エース候補から外れてから独自のプロレスが味となって、面白くなったのが中西学のプロレス。
そして、エリートはプロレス界固有の天然記念物となった。
 
中西は2000年頃、「P-4M」というメッセージをリング上でハンドサインで発信していた。
このハンドサインには次のような意味がある。
 
「問題(Problem)」に
「耐える(Put up)」ことにより
「願いが叶う(Possible)」ことを
「約束される(Promise)」
 
もしかしたら、中西は誰にも分からなかったかもしれないが、この生き方をずっと貫いていたのかもしれない。
だが、その生き方はなかなか伝わらなかった。
元々、不器用だった中西には己の生き様を投影するプロレスが周囲に伝わるには時間がかかった。
「バカだ」と言われても、男にはプロレスしかなかったのだ。
人生いろいろ、そして、プロレスラーの人生もいろいろだ。

P-4Mの天然記念物・中西学のプロレスには人生のすべてが濃縮されている。和製ヘラクレスの生き様は我々に今後も勇気と元気を与え続けていく…。

 
【参考文献】
★ 週刊プロレスモバイル 中西学インタビュー(2008年7月)
★ 今の自分がいる理由 中西学~リレーでつなぐハートの話~/船井幸雄.com
★ 日本プロレス事件史 vol.26(ベースボールマガジン社)