ザ・レスラー~実在版スター・アポロンはプロ格の貴獣~/ダン・スバーン【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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第158回 ザ・レスラー~実在版スター・アポロンはプロ格の貴獣~/ダン・スバーン





1990年代にマット界にプロ格という新たな概念が生まれた。
それは二つの惑星がクロスオーバーした現象だった。

元週刊プロレス編集長のターザン山本氏は最近、このようなことを語っている。

「UWFって不思議な物語だったよねぇ。真剣勝負なんてやるつもりはなかったのにこんなドラマが起こるなんてね。それは真剣勝負とプロレス、どっちが正しいという話ではないよ。プロレスってグレーゾーンが需要じゃない。どの時代も八百長か真剣勝負かという論争が起こるけど、白黒ハッキリさせようとするせめぎ合いでもあるんですよ。佐山サトル、前田日明、高田延彦、船木誠勝、鈴木みのる、仕掛け人である石井館長(K-1創始者)、榊原さん(元PRIDE代表)……。多くの選手、関係者たちがそのグレーゾーンでもがき苦しんだことで、プロ格という魔物、怪物が生まれてしまったたんです」

"プロ格"という概念を世に提示したのが山本氏だった。
1990年代中盤、山本氏はこう予言している。

「これからは格闘技の時代が来る」

「これからはプロレスと格闘技の"プロ格”の時代が来る」

その予言は的中する。

1993年に旗揚げした立ち技格闘技K-1、1997年に旗揚げした総合格闘技PRIDEはゴールデンタイムで中継され、世間を震撼させるほど大ブレイクし、2003年の大晦日にはK-1中継がNHK紅白歌合戦を瞬間視聴率を上回るという史上初の快挙を果たした。

2002年にはプロレスでも成し遂げられなかった国立競技場進出をK-1とPRIDEの合同イベントで果たして見せた。
今、思えばそれは格闘技バブルだったのかもしれない。

その一方で"プロ格"という概念は、プロレスと格闘技という別ジャンル同士の距離が接近していくということを暗示していた。

プロレスラーがK-1やPRIDEへ参戦し多くの者が敗戦していった。
プロレスマットで総合格闘技が開催された。
多くの格闘家がプロレスマットに参戦していった。
【俺達のプロレスラーDX 第89回 修羅場の渡世人~お前も入るか!? 炎の男塾!~/ドン・フライ】


そんな中で生まれたのが一人の"野獣"。
彼は"プロ格"のスター選手だった。

「彼はスター・アポロンみたいですよね」

ある格闘技関係者は彼をこう評したという。

スター・アポロンとはタイガーマスク(漫画)の登場人物。ウルサス=アポロンとは親族関係にある。南米の血まみれの星」の異名を持つプロレスラー、アポロン兄弟の兄。スーツとネクタイを身に着け、弟とは対照的に礼儀正しい。茶道や絵画に理解を示し、芸術的なプロレスを目指す紳士。逆立ち状態から足で相手を投げ飛ばす「逆立ち投げアルゼンチンバスター」や、空手チョップを真剣白刃どりのように受け止める「真空キャッチ」など、2000種類の技を持つ天才。
【マンガペティア/スター=アポロン】





その男の名はダン・スバーン(ダニエル・スバーン)。
188cm 120kg,黒の口髭がトレードマークの人呼んで"ザ・ビースト(野獣)"。
プロレス界の伝統的最高峰王座のNWA世界ヘビー級王座と何でもありの総合格闘技UFCを同時期に戴冠した唯一の男…それがスバーンだ。
後に、"猛獣"ブロック・レスナーがプロレス界のWWEとIWGP,格闘技のUFCの王者となったが、プロレスと格闘技を並行して王者であり続けたのは現段階では彼しかない。
そんなスバーンは元々、アマチュア・レスリングの強豪で格闘プロレスUWFインターナショナルの常連外国人だった。
今回は"実在したスター・アポロン"のレスラー人生を追う。

ダン・スバーンは1958年6月8日アメリカ・ミシガン州コールドウォーターに生まれた。
学生時代から汗を流したアマチュア・レスリングで才能を開花させ、全米トップクラスのレスラーとなった。アリゾナ州立大学卒業時には大学内のレスリング殿堂入りを果たしたという。
1984年のロサンゼルス五輪と1988年のソウル五輪ではアメリカ代表候補になるも、出場できず控え選手に甘んじた。ちなみに彼はフリースタイルにもグレコローマンスタイルには対応できた。
実力は五輪クラスのスバーンは試合以外は地元の高校や大学でレスリング部のコーチを長年務めていた。結婚をし、子宝に恵まれた。生活も安定していた。

そんなスバーンに目をつけたのが"鉄人"ルー・テーズだった。

「アメリカン・プロレスでは成功しない典型的なシューターだが、レスラーとして充分な素質がある」

テーズは当時、UWFインターナショナルの最高顧問を務めていた。テーズの推薦で1992年11月に初来日を果たす。彼にとってUWFとはプロレスデビューの場だったのだ。ただし、UWFは通常のプロレスとは少し異なり、シュートファイティングとも言われる格闘プロレスだったので、スバーンにとってはまだ入りやすかったのかもしれない。

Uインター参戦時はアマレス仕込みのスープレックスとテイクダウン技術で対戦相手を倒し、最後は両腕で片足と首を固める複合技リバース・バイパー・ホールドで勝利を収めてきたスバーンだったが、当時のUインターには"赤鬼"ゲーリー・オブライトや"皇帝戦士"スーパー・ベイダー(ビッグバン・ベイダー)といった怪物外国人がトップにいたため、スバーンは地味な中堅外国人選手として扱われていた。

当時のスバーンについてオブライトはこう語っている。

「ダン・スバーンはアマチュアとしては最高のテクニシャンなんだ。でも、彼はあまりにもナイスガイでね、キラー・インスティンクト(本能的殺意)ってもんがない。サルマン・ハシミコフ、ウラジミール・ベルコビッチ組との試合なんかがいい例さ。せっかく、相手をスリーパーでつかまえておきながら、あとちょっとのところで外してしまうのさ。俺は"なぜだ?"と聞いたよ。そうしたら彼は"あのままじゃ窒息しそうだったから"と答えたのさ。ダンは優しすぎるんだよな」

そんなスバーンにとって大きな転機となったのは1994年12月16日のUFC4(当時はアルティメット大会と日本では呼ばれていた)参戦である。
スバーンは8人参加のワンデー・トーナメントにエントリーし、一回戦でキックボクサーのアンソニー・マシアスに豪快なジャーマン・スープレックスを放ち会場の度肝を抜き、決勝に進出するも、"グレイシー最強の遺伝子"ホイス・グレイシーに敗れ、準優勝に終わった。
この活躍が認められ、スバーンはUFCのレギュラーとなった。

一方でプロレスの方ではUインターを離れ、地元アメリカ・インディー団体に上がり、1995年2月には伝統のタイトルNWA世界ヘビー級王座を獲得した。
スバーンはプロレスについてこう語っている。

「私の最初の先生はアル・スノーだった。そう、マネキンの頭をリングに持ち込んでECWやWWFでブレイクした、あのアル・スノーだよ(笑)。そのあと私はサーキットをしながら、先輩レスラーの試合を見て、そして直接質問してプロレスリングを勉強していったんだ。現役レスラーだけでなく、ルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ブルーノ・サンマルチノ、ビル・ロビンソン(関連記事)ら多くの偉大な先人たちにも積極的に話を聞きに行ったよ。プロレスリングには技術書もマニュアルもないんだ。レスラーからレスラーヘ語り継がれ、技術を受け継いでいくものなんだよ。だから私は彼らから話を聞き、自分の目で見て、それをノートしていった。いまやそれは膨大なファイルになっているよ。私が幸運だったのは、出会った多くのプロレスラー、例えばテリー・ファンク、ドリー・ファンクJr、バッドニュース・アレン、スーパーフライ ジミー・スヌーカ、グレック・バレンタイン・・・・・彼らはみんな本物のレスリングが出来る選手たちなんだよ。だから私は本物のプロレスリングを学ぶことができた」

NWA王者となったスバーンは1995年4月7日のUFC5に参戦し、トーナメントを優勝。プロレスと格闘技の同時王者という快挙を果たした。スバーンはまるで"野獣"の如く、オクタゴンで叫び、NWAとUFCの日本のチャンピオンベルトを両手で掲げていた…。

頭の中でアルティメット・モードになっていないときのスバーンは、週末になるとニュージャージーあたりのスモールタウンへ出かけていって三百人くらいの観客の前で普通のプロレスをして見せる。肩書きは"NWAワールド・ヘヴィーウェート・チャンピオン"。チャンピオンベルトだって、ジャック・ブリズコやハーリー・レイスが腰に巻いたものとまったく同じデザインの精巧なレプリカが使われている。もちろん、スバーンは"NWA"の歴史なんて知らないし、それほど気にもとめていない。プロレスのリングに上がる時はコスチュームの一部としてNWAのベルトを身につけるし、みんなが喜んでくれるみたいだから"アルティメット"の方のベルトだっていつも持ち歩いている。スバーンには、二本のベルトのちがいがよくわからない。結局、スバーンは、そんなこと、どっちだっていい、と考えているのだ。アマチュアの大会に出場するときはアマチュア・ルールのレスリングを心掛け、プロレスをやる時はプロレスを、アルティメット大会ではいわゆるアルティメット的な闘いを想定してオクタゴンに足を踏み入れる。
【BOY ARE BOYS ―ボーイズはボーイズ― とっておきのプロレスリング・コラム 斎藤文彦 著 (梅里書房)】

1995年12月16日のオールスター戦トーナメントUltimate Ultimate 1995をも制覇し、スバーンはプロレスと格闘技をまたにかけた活躍を見せた。

Uインターの常連だったスバーンはいつしか大物ファイターになっていた。
1995年8月にIWAジャパンの川崎球場大会で"鬼神"ターザン後藤とNWA王座戦を行ったがその際に某専門誌ではスバーンを"貴人"と称していたが、どこかスバーンの佇まいには気品があった。スバーンはまさしく"プロ格の貴獣"だった。

「ディック・マードックの言葉をよく覚えているよ。彼は私にプロレスリングは『レス・ミーンズ・モア』だと教えてくれたんだ。『より少しが意味するものは、より多いということ』さ。つまり今のレスラーはとにかく技をたくさん出すだろ?でも、本当は質のいい技をひとつ出した方が、たくさんの技に勝るんだよ」
UFCで格闘家として評価が上がり、賞金も手にした。
それでもスバーンの生活は変わることがなかった。
彼は家族にとってよきマイホームパパだった。

確かに私の試合でも観客はブーイングを飛ばすことがある。だが、私がやっているのは“勝負”なんだよ。勝負を度外視してただ殴り合うだけなら、誰にでもできる。格闘技とはそんな単純なものではない。私はアマチュア・レスラーだった頃から負けずぎらいで、状況が許す限り常に大会に出場し、競い合うことに生き甲斐を感じる“コンペティター”だった。その姿勢はいまも変わらないし、絶対に破られない記録があれば、「よし、ならそれを破ってやろう」と意気込む人間なんだ。
【プロレス格闘技ニュースまとめサイト 人間風車/ダン・スバーンMMA100勝の道のり「呼ばれて行ってみたら地下格闘技の試合だったこともある」】

しかし、スバーン人気は徐々に下火になっていく。
やはり、二足の草鞋を履いて勝てるほ甘くはない。
UFCは大会を重ねるにつれて、NHB(ノー・ホールズ・バード/何でもあり)からMMA(ミックスド・マーシャルアーツ/総合格闘技)へと進化を遂げ、総合力が求められる世界となると、スバーンは勝てなくなっていった。
また、プロレスではその強さが認められてはいるものの、器用な試合ができるタイプではなかったので、NWA王座戴冠を越えるサクセスはなかった。

小川直也や橋本真也のNWA王座戴冠の対戦相手になった。
スバーンはインディー界のミスターNWAであり続けた。

40歳を過ぎた。
全盛期は過ぎている。
それでもスバーンはリングを下りなかった。

"元アマレス全米選手権者" "UFC優勝" 、そして"あんまり売れないプロレスラー"。肩書やプロフィールには無頓着に生きている。どんなシチュエーションのなかに放り込まれても、スバーンはスバーンのままだ。
【BOY ARE BOYS ―ボーイズはボーイズ― とっておきのプロレスリング・コラム 斎藤文彦 著 (梅里書房)】

インディーのプロレス団体や格闘技団体にスバーンは出場した。
その中でMMA戦歴は53歳の時には125戦100勝18敗7分という信じられない記録が生まれていた。どんなレベルの大会だったかは別にしてMMA100勝という記録は前代未聞。

私はMMAキャリアの中で自分のことを“ファイター”だと思った瞬間はない。いままでずっと“レスラー”だと自負してきた。だから私は試合で相手に殴らせないし、自分から打撃を強振することもない。私にとってMMAで闘い続けることには、いろんな理由があるんだよ。単なるお金のためじゃない。たとえば私が初めてUFCに出場したとき、当時はサミング、噛みつき以外はすべて許されるルールだった。もともと私はカネがほしくてケージに入ったんじゃない。ただ、自分の技術がどこまで通用するかを試そうと思っただけなんだ。おかしな話かもしれないが、死ぬかもしれないルールの中でそれをやろうとした。これはお金の問題じゃないんだよ。MMAにはシャードッグとかフル・コンタクト・ファイターなど、選手のデータベースを管理するサイトがあるが、彼らはUFCが始まって数年後にできた会社だ。私の試合数は実際にはもっと多いし、記録されていない試合だけでも20~30試合はある。だから100勝したのも一昨年か2年ぐらい前だろうね。あまり有名ではないローカル大会の試合もあれば、決して公式記録には残らない地下格闘技の試合もある。たとえば、突然「飛行機のチケットを送るから、ここまで来てくれ」という連絡が来て指定された場所に行くと、誰かがピックアップしにきて人気のないところに私を連れて行く。人気のない建物に入ると、中にはケージがあって地下格闘技が行われているんだ。
【プロレス格闘技ニュースまとめサイト 人間風車/ダン・スバーンMMA100勝の道のり「呼ばれて行ってみたら地下格闘技の試合だったこともある」】

恐らくスバーンにとって総合格闘技もプロレスもアマレスも一つの道でつながっている。
それは"レスリング"。
だから彼は"ファイター"ではなく、"レスラー"であることにこだわる。
プロレスの世界でも格闘技の世界でも、どこに行こうが、レスラーとして生きるスバーンこそ、"ザ・レスラー"なのかもしれない。
UFC殿堂入りを果たしたスバーンは2013年に一度は引退を発表したが、2016年現在も試合は続けている。
58歳になっては彼は現役格闘家である。

”プロ格”の貴獣は語る。

「MMAは『競技』である。プロレスは技を出すことによって作られる、『物語』なんだ」

"スター・アポロン"のプライドはプライドはちょっとやそっとでは傷ついたりしない。
【BOY ARE BOYS ―ボーイズはボーイズ― とっておきのプロレスリング・コラム 斎藤文彦 著 (梅里書房)】

競技と物語に生きた"実在版スター・アポロン"の功績がもし、地下社会に埋もれてしまったとしても,掘り起こせば、レスリングに人生を捧げた"ザ・レスラー"の偉大なる威光を放っているのだ。