俺達のプロレスラーDX
第151回 追憶のアメリカン・ウェイ~我が愛しの空爆戦士~/パトリオット
僕はプロレスが好きです。
僕はプロレスラーが好きです。
どんなスタイルや団体が好きとか、どんな選手が好きだとかではなく、ジャンルとして人種として僕はプロレスとプロレスラーを愛しているのです。
僕がプロレスファンになる決意を固めたのは今から20年以上前の1992年のこと。
当時、僕が住んでいた地域ではテレビ朝日系の金曜午後4時に「ワールド・プロレスリング」が放映されていました。「ワールド・プロレスリング」をたまに見ていた僕はいつしかプロレスに興味を持つようになったのです。しかし、その「ワールド・プロレスリング」が日曜の深夜に放映時間が変更になったのを機に、毎週録画して見ることにして、さらに日本テレビ系で当時放映されていた「全日本プロレス中継」も一層のこと録画して見ることにしました。
またプロレスの情報を伝える週刊誌も購入することにしました。
こうして、僕はプロレスファンになりました。
新日本プロレスと全日本プロレスを見て、プロレス者としてのイデオロギーやアイデンティティーを構築させていった僕にとって、大きな出会いとなったのはレンタルビデオ屋で借りたアメリカン・プロレスでした。
日本とアメリカ、プロレスというジャンルは同じでもスタイルは違いました。しかし、各々に違った面白さがあったのです。また僕が見たアメリカン・プロレスにはオールドスクールなアメリカン・プロレスもあれば、デスマッチもあれば、ジャパニーズ・スタイルもあったり、様々なスタイルが一つのプレートに並べられていたのです。
これがプロレスの奥深さ。日本であろうが、アメリカであろうが、メキシコやカナダ、ヨーロッパだろうが、プロレスのスタイルに差異があっても、それぞれに独自の趣きがあったのです。
アメリカン・プロレスとの出会いは僕のプロレス観を大きく変え、プロレスとは多種多様なジャンルなのだということを痛感させられました。王道、闘魂、邪道といった固定観念はあくまでもプロレスの大きな括りのほんの一部に過ぎないのです。その壮大さと雄大さに僕のプロレスへの探求心がより増していきました。
僕が見始めた当初の新日本プロレスや全日本プロレスには、多くの強豪外国人レスラーが参戦していました。新日本にはビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバン・ビガロ、スコット・ノートン、トニー・ホーム、グレート・コキーナ、ワイルド・サモアンといった大型モンスターが集結。全日本プロレスにはスタン・ハンセン、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス、ダニー・スパイビーの外国人四天王に、ジョニー・エース、ダニー・クロファット、ダグ・ファーナスといった次世代の外国人レスラーがトップ獲りに意欲を燃やしていました。
現在の日本プロレス界とは異なり、外国人レスラー達にとって日本は主戦場だったのです。僕がプロレスを見始めた頃に全日本プロレスに初来日を果たした一人の外国人レスラーがいました。それが今回の主役なのです。
彼の名はパトリオット。
人呼んで、"空爆戦士"、"愛国仮面"。
190cm,118kgの筋肉質で屈強な肉体と運動神経は大きな期待を抱かせた。
僕はこのパトリオットのことを思い出すと、何故かプロレスを見始めた頃の自分を思い出すのです。
そして、どこかでずっと気になっている存在でもありました。
あなたにもどこかにいませんか?
自分にとって、大好きではないが、どこか気になっている人物。
昔の自分を思い起こさせる人物。
姿や消息が分からなくなっても、「今アイツは頑張っているのかな?」と思わせる人物。
僕にとってパトリオットとはそんなレスラーです。
今回の「俺達のプロレスラーDX」は我が愛しの空爆戦士・パトリオット…あなたに捧げます。
実は今回紹介するパトリオットは二代目である。
「パトリオット」を名乗った覆面レスラーは三人いるのだ。
初代は1970年代にアメリカ・インディー団体に参戦していた。
正体はボビー・ハートというレスラーだという。
三代目は2000年前半にアメリカ・インディー団体に出現。
正体は全日本やWCW、WWEにも参戦したジョニー・ガン(トム・ブランディ)という中堅レスラーだった。
しかし、二代目のパトリオットほどの輝きは放っていなかった。
なので、この二代目が代表格のパトリオットと言えるだろう。
パトリオットは1961年12月21日アメリカ・サウスカロライナ州コロンビアに生まれた。
本名はデル・ウィルクスという。
少年時代からプロレスファンだった彼は中学生の時にプロレスラーになることを志す。
「僕は南部育ちだから、ブリズコ兄弟、ワフー・マクダニエル、グレッグ・バレンタイン、それからファンクスなんかが少年時代のヒーローだった。ライブで観た試合では、ブリズコ兄弟 VS リップ・ホープ&スウェード・ハンセンの大流血戦が印象に残っているね。子供の頃は、よく弟にパイルドライバーなんかをかけて遊んだもんだよ。もちろん、ベッドの上のやわらかいところでね(笑)」
デルにはアスリートとしての才能に恵まれていた。
学生時代にアメリカン・フットボールで活躍し、大学卒業後にNFLに入団し、プロの道へ進んだ。
アトランタ・ファルコンズとタンパ・バッカニアーズで1シーズンずつプレーしたという。
デルが少年時代から抱いていたプロレスラーへの道を歩むことになったのは1988年のこと。名伯楽ブラッド・レイガンズが率いる「レイガンズ道場」でトレーニングを積んで、AWAでザ・トルーパーという警備員キャラクターとしてデビューを果たす。
ちなみにこのキャラクターで1990年8月に全日本プロレスに初来日をしている。
「僕はファンの気持ちを理解できるレスラーになりたいんです。ファン上がりといったら、ほとんどのレスラーはファン上がりですよ。でも僕はプロ・フットボールを経験しているから、たくさんのお客さんの前でナーバスになったりすることはない。人が多ければ多いほどいいファイトができるよ」
そんなデルがマスクマン「パトリオット」に変身するのは1991年6月のこと。
テキサスのインディー団体GWFにて空爆戦士は産声を上げた。
愛国者という意味を持つパトリオットは星条旗をあしらったド派手なマスクとロングタイツ、コスチュームはまさしくアメリカン・ヒーローそのものだった。
アメリカン・プロレスでは愛国者キャラクターは正統派キャラクラーの鉄板である。
「パトリオットとは言論の自由、表現の自由。アメリカ人であることのプライド。レスリングにも、愛国主義は生かされています。これはある人から聞いた話なんだけど、ジョージ・ワシントンもアブラハム・リンカーンもレスリングをやっていたというじゃない。レスリングは、リーダーシップをとったり、難局を打開するメンタルな強さを培ってくれるスポーツなんだと思う」
同年8月にアル・ペレスを破り、GWF北米ヘビー級王者にもなった。
GWFのエースとなったパトリオットが選んだ次の戦場は日本だった。
1992年5月に全日本プロレス「スーパー・パワー・シリーズ」に期待のニューカマーとして来日したパトリオットは初戦からセミファイナルに抜擢され、"英国の爆弾"ジョニー・スミスと組んで当時の世界タッグ王者のジャンボ鶴田&田上明と対戦した。
ここでパトリオットはインパクトを残す。エース鶴田との対戦で、手四つの力比べで互角に渡り合い、さらに鶴田のフルネルソンを自慢のパワーで強引にほどいて見せた。
大歓声に包まれる中でパトリオットは胸板を叩き咆哮を上げた。
終盤には得意技であるパトリオット・ミサイル(トップロープからのダイビング・ショルダータックル)も炸裂。初戦にしてパトリオットはファンの心をガッチリと掴んだ。
その後、トップ外国人レスラーのスティーブ・ウィリアムスや若手急先鋒の小橋健太とのシングルマッチで実力を証明し、三沢光晴&川田利明とのタッグマッチとの対戦では当時の日本マット界ではあまり見たことがなかったフルネルソン・バスター(パトリオット・バスター)を初公開した。
1シリーズで全日本プロレスの常連外国人レスラーの仲間入りを果たしたパトリオットはその後、同年デビューの小橋と「日米新世代ミサイルコンビ」を結成し、日本マットでの経験を積んだ。
年末の「世界最強タッグ決定リーグ戦」にはこのシリーズで誕生した星条旗マスクマンであるジ・イーグルとのコンビで初出場。リーグ戦を盛り上げ、大健闘を果たした。
イーグルとの愛国仮面コンビは実にバランスのとれたタッグチームだった。
パワーのパトリオットとテクニックのイーグルはコンビネーションも多彩で役割分担も出来ていた。試合を決めるのはパトリオットで、イーグルは試合をコントロールする司令塔だった。
1993年6月には小橋健太&菊地毅を破り、アジアタッグ王座を獲得した。
またアジアタッグを何度も戴冠した名タッグチームであるカンナム・エクスプレスとの対戦はアジアタッグの名物となった。
パトリオットの魅力はマスクマンでありながら、熱き感情を持ち、喜怒哀楽を表現できるという才能と天性の華だ。運動神経にも優れていたが、動きにぎこちなさもあったりもした。そんなマイナスも豊かな感情表現と天性の華でカバーしていたのがパトリオットだった。もしかしたら長年WCWのエースであり続けた伝説のプロレスラーであるスティングに似ている部分かもしれない。
パトリオットはレスラーとして名声を求めて1994年アメリカのメジャー団体WCWに移籍する。後にnWoのメンバーとなるマーカス・バクウェルとの「スターズ・アンド・ストライプス」というタッグチームを結成し、WCW世界タッグ王座を獲得する。
1995年には再び、全日本プロレスに帰ってきたパトリオットはジョニー・エースとのアメリカ版超世代軍でトップ戦線に食い込んでくる。タッグマッチながら小橋健太を復帰戦で高角度パワーボムで金星を挙げ、シングルマッチで小橋を撃破する成長ぶりを披露してみせた。
同年8月には川田利明&田上明が保持する世界タッグ王座にも挑戦した。
1996年にはパートナーのエースが依然組んでいたスティーブ・ウィリアムスとの殺人狼コンビを復活させたため、パトリオットは小橋とのコンビを再結成する。年末の最強タッグに出場し、惜しくも決勝戦に進めなかったものの、第三位という結果を残した。
1997年には小橋、エース、パトリオットのトリオで「G.E.T(グローバル・エネルギッシュ・タフ)」を結成、新世代軍団として全日本プロレスに新風を巻き起こすはずだった。
だが、パトリオットは左ヒジを痛め、その古傷を抱えながら試合を続けていた。
その古傷の悪化によってシリーズを欠場したパトリオットだったが、なんと欠場中にアメリカWWE(当時はWWF)に移籍する。全日本サイドからするとダブルクロス(裏切り)をしたという形となった。それ以降、パトリオットが来日することはなかった。
WWEに移籍したパトリオットはWWEのスーパースターのブレット・ハートと抗争を繰り広げたが、今度はヒザを痛め、1998年に団体から解雇が言い渡された。
そのままパトリオットはフェードアウトしていった。
パトリオットはトップにはなれなかったかもしれないが、キャリアは短くてもまるで線香花火のようなプロレス界で光を放っていった。
スーパーヒーローにはなれなくても彼はヒーローだった。
「誠実、公正、勤勉。そしてドゥーイング・シングス・ライト、つまり正義です。もちろん、欠点のない人間はいません。でも、つねに物事にベストを尽くすこと。これがアメリカン・ウェイなんです」
だが、アメリカン・ウェイを歩んだ男の光には闇があることが後になって判明する。
実はプロレスラーになる以前からステロイドとコカインの常習者だったのだ。
1日に150錠も摂取する中毒者だった彼は1997年から2002年にかけて処方箋偽造の容疑で実に20回も逮捕された。
地に落ちた空爆戦士。
皆の夢も希望も裏切った正義の味方。
それがパトリオットの終幕。
なんとも悲しくて腹立たしい結末である。
パトリオットのレスラー人生は愚かなものだったのか…。
僕にとってパトリオットとは青春でした。
だが青春や人生は終わりがあります。
その先にあるのは厳しい現実でした。
あの屈強な彼の肉体には薬が絡んでいたというのはプロレスを見始めた頃の僕が知ったとすれば幻滅したかもしれません。
正直、今考えても彼がコカインとステロイドの常習者だったという事実はショックなんですよ。
本人が目の前にいたら、「俺達を裏切りやがって、バカヤロー!!」と抗議したいくらいに…。そんなモヤモヤした日々を過ごしていたある時、こんな出来事がネットで話題になっていました。
スポーツ総合雑誌「Number」で2016年2月に覚せい剤取締法違反で逮捕された元プロ野球選手・清原和博氏を表紙にしたのです。賛否両論が沸き起こった中で編集長の松井一晃さんは清原氏を表紙に抜擢した理由についてこう語りました。
「犯罪は犯罪。犯してしまったことは償わなければなりません。しかし、清原さんが素晴らしい打者であったことは事実です。当時、彼に励まされ、熱狂し、影響を受けた人は数知れません。そんな人が、このまま朽ちていくのは嫌だった。ただ、"立ち直って欲しい"と思ったんです。許したいとかでは決してありません。偉そうだけど、清原さんが立ち直るためになにかできることはないか。個人的には、そういう思いもありましたね。同世代にとってヒーローだったのは事実。清原さんの存在をなかったことにするのは、過去の自分まで否定する行為だと思うのです。"清原ってやっぱりすごかったよな"と思い出してもらいたい」
清原の存在を否定することは過去の自分まで否定する行為。
実は松井さんにとって清原氏は自身の人生に影響を与えたヒーローだったのです。
1985年の夏、高校一年の私は父のクルマの中で編入試験の合格発表を待っていました。ラジオからPL対宇部商の中継が流れています。
「ここでキヨハラが打ったら、俺も受かる……」
次の瞬間、あなたはホームランを打ちました。甲子園はキヨハラのためにあるのか。
次の打席も、あなたはホームランを打ちました。以来、あなたのホームランに、一体どれだけ励まされつづけたことか。
【「Number」2016年8月10日発売号編集後記より】
目から鱗が落ちました。
彼が犯した過ちは否定できないし、非難されるべきだが、だからといって彼の足跡や伝説まで消去されるわけではない。
僕は…これはパトリオットにも言えるような気がしたのです。
もう許さないとか、裏切り者とかどうでもいいんです。
彼は彼で大変な人生を生きてきたのですから。そして、プロレスファンだからといって、僕が彼に偉そうなことを言える立場ではないですから…。
プロレス界を離れた彼は自動車のセールスマンになったといいます。
彼は近年、こんな言葉を残しているそうです。
「自分の人生は誰も真似をしないでほしい」
褒められた人生ではなかったかもしれません。
プロレスラーとしての偉大なる記録を残したり、栄冠に輝いたわけではありません。
でも不格好でも野暮ったくても、筋肉がステロイドで作られたものだったとしても僕にとってパトリオットはヒーローなんです!!
その事実と追憶は消えることはないのです。
ちなみにNumberの松井さんは今、目の前に清原氏がいたらこう声をかけたいそうです。
「あなたと同じ時代に生まれて本当に良かったです」
全てを受け止めた上で出てきた重くて尊い言霊のように僕には感じました。
ならば僕も我が愛しの空爆戦士にこの言葉を捧げたい。
「僕にとってあなたはヒーローです。あなたのプロレスをリアルタイムで観れたことに僕は誇りに思います。ありがとう、パトリオット…」