俺達のプロレスラーDX
第19回 日本のプロレスを変えた賢者/冬木弘道
プロレスは戦いであり、真剣勝負であるという論調が強い最中の1990年代後期。
エンターテインメントプロレスを謳い、業界に挑戦状を叩きつけた男がいた。
その男は冬木弘道。
彼は日本のプロレスの歴史を変えた男だった。
冬木弘道は19歳の時に国際プロレスでデビューし、34歳の時に理不尽大王として大ブレイクするまでの15年間。
常に日陰のプロレス人生だった。
相手を立てたり、パートナーを支えたりするバイプレイヤーだった。
冬木が大ブレイクするきっかけは二つあった。
まずは1993年、新日本・橋本真也との激闘。
あの新日本強さの象徴・橋本に引かずに、翻弄する試合巧者ぶりと喧嘩度胸を発揮し、
彼の名は注目された。
もう一つは1994年の冬木軍結成である。
インディーマットで暴れまくっていた邪道&外道と冬木軍を結成した冬木は業界に波紋を呼ぶほどのやりたい放題。
川田利明の得意技ストレッチプラムで勝利した後に勝手に冬木スペシャルに改名したり、会社に強要し、キャデラックで送り迎えさせる我がまま爆発。
理不尽大王と呼ばれ、常に会場でブーイングを浴び、憎まれっ子世に憚ると実践するかのようなヒールっぷりには賛否両論だった。
しかし、冬木は熟慮の上での行動だった。
「俺らは客が呼べるレスラーになりたい。
だからいつも営業の人間にチケットの伸びを聞いている。
商品価値が上がれば他団体からもいいギャラで呼ばれる。
そして結果的に客を呼べば団体のためになってんじゃないかな。」
冬木は所属団体のWARを離脱し、インディーへの主戦場を変更する。
FMWに標的を絞った冬木は、後に伝説のユニットとして語られるTNR(チーム・ノー・リスペクト)を結成し、FMWの創始者大仁田厚を破り、ショーに一番近いプロレスを目指すと宣言した。
「ショー的プロレスにいくって言ったけどプロレスは全部一緒。
俺は現状のプロレスを最高に進化させたプロレスを目指す。
やっている基本のプロレスは同じだよ。
ブリーフブラザーズ(試合前にコントを披露していたTNR内のユニット)も試合前にみんなで一生懸命に考えてんだから…」
エンターテイメントプロレスFMWの誕生である。
アイドルやタレント、演歌歌手、AV女優などの今でいうところのDIVAを起用し、ビジョンを使った連続ドラマ風ストーリーライン。
FMWはタブーを破っていく…
1999年11月には横浜アリーナではエンターテインメント路線の集大成興業を開催し、大いに盛り上がった。
しかし、経費がかかりすぎて、赤字となる。
その後、FMWの経営状態は一気に悪化してしまう。
経営が悪化し、離脱者も出た。
CS放送の放映権料も減額していき、しだいにエンターテインメントプロレスは迷走していく。
そして2002年2月、FMWは崩壊した。
冬木は自らの団体WEWを立ち上げることになる。
しかし、冬木はこの大事な時期にがんを患ってしまう。
盟友三沢光晴の協力があり、ノアで引退興行を開催された。
そこで引退し、WEWの経営に専念する。
経営は苦しかった。
しかし冬木はこう語っていた。
「金はないよ。
でも金は使わなきゃ入ってこないから。
金がないからってチマチマやってたら、エンターテインメントなんてできないよ。
物事を先延ばしにしないで今できることをやるよ。
人間、いつ死ぬかわからないから…」
そして冬木のがんは再発してしまう。
抗がん剤治療をやめたことでガンが肝臓に転移し、
2003年3月19日横浜市民病院でがん性腹膜炎のため逝去。
享年42歳。
あまりにも若すぎる死、プロレス界にとって大きな頭脳の損失だった。
冬木が開拓したエンターテインメントプロレスはその後ハッスル、DDTへの受け継がれていった。
プロレス界の賢者は、盟友三沢、ライバル橋本とともに今日のプロレス界を天国で見守っている。
理不尽節を言いながら…