第5章 王道 【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
第5章 王道 


1998年5月の川田戦に敗れて、長期欠場した三沢光晴。

この頃、三沢は社員の意見を聞く立場にいた。

御大馬場や影で実権を握っていた馬場元子夫人には言いにくいことを三沢には相談していた。

三沢は彼らのかわりにオーナーに意見するようになった。 


三沢は当時の全日本において煙たがれていた馬場元子夫人の現場介入に対して選手やスタッフを代表をして御大馬場にこう直訴したという。


「元子さんには現場から退いていただきませんでしょうか?」


三沢は己というよりみんなのために立ち上がったのだ。


1998年8月、三沢は3か月ぶりに復帰を果たす。

復帰直前のインタビューでこう言った。

「なんでも人任せにしないで、思ったことは主張すべき。

ただし自分の行動や言動には責任を持たないとね」

後に三沢革命と呼ばれる事変の前触れである。






三沢は試合の後半部分のマッチメーカーを馬場から譲り受けた。

ややマンネリ化していた全日本のマッチメイクにメスを入れる。

まずは自らのタッグパートナーを秋山から別のレスラーに変更すること示唆した。

新しい刺激の導入だった。


三沢の新パートナーは誰か?

大森隆男、垣原賢人など候補が上がるが三沢の意中のパートナーは小川良成だった。

何故テクニシャンだがジュニアの小川を選んだのか?三沢はこう語った。

「小川と組めばなぜだか試合に負けない気がするんだ。」


三沢は小川を久しぶりに酒に誘った。

そして雑談に花を咲かせた後に、こう切り出した。

(三沢) 「あのさ小川、俺とタッグ組まないか?」

(小川) 「えっ…。三沢さん、本気ですか?俺に勤まりますか」

(三沢) 「大丈夫だよ」


二人の会話は続く。

(三沢)「おまえもこのまま終わる男じゃないだろう」

(小川)「俺で本当にいいんですか」

(三沢)「おまえでなくて、おまえがいいんだよ」

(小川)「わかりました。三沢さん、よろしくお願いします」


こうして決まった三沢&小川組。

最後はお互いのグラスにビールを注ぎ、契りを交わした。

その後、三沢はジュニア選手と組むのに難色を示していた馬場に

「大丈夫です。俺に任せてください」

と説得し、正式にタッグチームは結成された。


三沢革命の余波は続く。

小橋と組んでいたジョニー・エースがコンビを解消し、

外国人軍団ムーブメントを結成。

三沢と離れた秋山は小橋と合体、志賀、金丸とバーニングを結成する。

わずか1シリーズで次々と決まった王道事変だった。






三沢は10月に小橋との壮絶な死闘の末、4度目の三冠王座を獲得。

1999年1月に川田に敗れて王座転落するものの、

三沢革命は順調に進んでいるかに見えた矢先,突然の訃報が飛び込んでくる。

御大馬場が逝去したのだった…


1999年1月31日全日本プロレス社長ジャイアント馬場が急死した。

1998年の年末から都内病院に入院していた馬場。

病名は大腸がんだった。

三沢は入院直後に馬場と病室で会話をしている。

悪い予感はしなかったという。






馬場逝去当日、三沢は記者会見場にいた。

馬場の病状は元子夫人ら数人しか把握しておらず、

三沢達には馬場の状態は伝わっていなかったのだ。

師匠である馬場との別れにも当然、三沢達は立ち会うことはできなかった。






三沢が全日本の次期社長濃厚なこの事態に心ないことをいう者がいた。

「全日本の実権を三沢が握るようになり、馬場の心労が増え死期を早めた。」

三沢は後日、飲みの席で号泣しながらこう言ったという…


「俺は馬場さんを殺そうなんてしていない。

今後のことを考えて行動しただけなんだ。

なのにどうして馬場さんが亡くなったことを誰も教えてくれなかったんだ!」


三沢は悲しすぎる叫びとともに泣くしかなかった。



馬場逝去に揺れていた当時の全日本で社長を務められる者は三沢しかいなかった。

三沢は1999年5月に馬場追悼興業でベイダーを破り、

5度目の三冠王座を獲得後、正式に社長となる。

馬場が逝去し一度は引退を考えた男は全日本再建のために立ち上がるのだった。





しかし、現実は厳しかった。

社長となった三沢だが、オーナーは馬場元子夫人だった。いわば雇われ社長。

ワイシャツの色や、ネクタイの柄に至るまで馬場のカラーを継承する伝統を強いられた。

三沢の社長室は何もない殺風景な部屋だった。


三沢は馬場がやってきたこと以外ダメという王道という束縛状態で社長業を務めていた。

当時、社内で三沢を社長という者は皆無。

社長と言ってはいけないという空気が充満していたという。

そんな状態に三沢は次第に疲弊していく。


王道とは何なのか?

これは人それぞれの意見や主張があるのだが、

私はジャイアント馬場そのものだったと解釈している。

馬場が考えるプロレス、それこそが王道だった。

しかし馬場逝去後も、王道を忠実に再現しなければいけない。

三沢光晴は馬場ではないである。






王道継承しつつも三沢は新しいことを取り入れる。

武道館では5大シングルマッチを組み試合順をファン投票で決めた。

ノーフィアーは三沢体制で生まれた暴れん坊タッグチームだった。

マイクで挑発。イス攻撃を辞さないスタイルは話題を呼んだ。


だが馬場元子夫人は馬場が築いた伝統と王道をそのまま残すことを三沢に強いる。

下からは売上につなげる何か新しいことをしないと突き上げられる。

もうどうしたいいんだ! 

三沢は腹心の仲田龍と全日本を出ることを密かに思い始める。


三沢は次々と反論する馬場元子夫人にこう言った。

「じゃあ元子さんが社長をやってください。俺は別に肩書はいりません。」

しかし元子夫人は

「私はやらない。ただ全日本が心配なの」とまた反論。

これでは物事は何も決まらない。





三沢はこんな状態に嫌気をさし、錦糸町の店で仲田龍とお互いに愚痴を言い始める。

そして、全日本を去り、居酒屋を経営しながら新人を数人育てて、

たまに自主興行ができればというささやかな夢を描き始めるのだった。


2000年5月13日。三沢のライバル、兄貴分のジャンボ鶴田がフィリピンでの肝臓がんの手術中に死去。

三沢は馬場に続いて兄貴分まで失う。

彼は1999年3月に鶴田がアメリカ移住のために出発に数人で見送りにいっていた。


ちなみに当時の鶴田と全日本とは距離があり、

アメリカに旅立彼を見送ったのは三沢と仲田と大八木専務だけだった。

三沢はこの時悲しんだという。

「これまでお世話になったのに、見送りぐらいして当たり前。みんな薄情だよ。」


鶴田は三沢にこう言っていた。

「僕はいつでも三沢くんの味方だから。できることがあったらいつでもいってほしい。」

三沢は鶴田の遺志を継ぎ、日本移植支援協会への協力を惜しまなかった。

それは彼が亡くなるまで継続したのだ。


2000年6月9日、日本武道館で事件が起きる。

興業終了後、社長である三沢の総括が通例なのだが、なんと会場に三沢の姿はなかった。

すでに自らの試合終了後に会場を後にしていたのだ。マスコミは騒然となった。


その後以下の事実が判明する。

1. 所属全選手は3月31日で全日本との契約が切れ、更改していない状態でシリーズに参加していたこと。 2. 5月28日時点で三沢は取締役会で社長を解任されていた。


全日本分裂へ…


2000年6月16日。

全日本を離脱した三沢以下のレスラーと練習生を含め26名が、

記者会見の場に立ち、新団体を旗揚げした。

当初は小規模での運営を目指していた三沢だったが、

他の選手が同調。選手、関係者含めて50人規模の大所帯になっていた。


三沢はこの記者会見でこのように語った。

「全日本がもつ伝統と私がこれからやろうとするプロレスの間にギャップを感じ、

私の理想とするプロレスを貫くには、

馬場さんが作ったプロレスを壊してしまうと感じ退団を決意しました。」






こうして三沢は19年に及ぶ全日本生活に別れを告げ、新団体旗揚げに歩み始めた。

実は馬場元子夫人は三沢が社長就任後数年間で経営のノウハウを学んだら、

全日本のすべてを三沢に預ける計画を密かに考えていたという。

しかしその計画を知る由もない三沢は我慢できなかった。


王道から離れ理想を追い求めた三沢光晴。

新団体名はプロレスリングノアに決まった。

旗揚げ戦は2000年8月5日と6日ディファ有明2連戦。

次々と決まっていく航海の見取り図。

しかし、その船出の内情には知られざる物語があった…

(第5章 王道 完)