思春期の頃、何をしても褒めてはくれない厳しい父の影響か、私はひどい自己嫌悪に陥っていた。

他人を羨み、何故私の魂は私の身体に入っていて、他の人の身体では無いのだろう?…と悩んだ。

誰も信じていなかった。
誰かと一緒に居ても、笑顔で冗談を言っても、救いようの無いほど孤独だった。

太宰を読み更け、哲学をかじり、宗教に手を出した。

私は、少なくとも今の私の魂は、自ら望んで私の身体に入ってこの生を生きている訳ではない。
…どうやら私をこの状態にさせている他者が在るようだ。

進化だの、自然の摂理だの…そんなものは何の説得力も無かった。
私はそんなものの為に望んでこの苦しい生を選んだ覚えはない。

その他者はどんな目的で私をこの状態に在らしめているのだろう?
そこにあるのは悪意か?気紛れか?それとも善意なのか?

その頃の私は毎日を重い鉛を背負って引き摺るように生きていた。
重い鉛を背負い、狂ったようにさ迷ってさ迷ってさ迷い続け…ふと立ち止まった時だった。

私に姿を見せないように物陰に隠れて、それでも私に暖かい目を注ぐ、私を在らしめる者の存在を、何となく唐突に感じた。

理屈ではない。
信じてくれなくても良い。
でもあっさりと、私は私を在らしめている何者かは善意で私を在らしめていると信じる事を選んだ。

それが正しいのか、間違っているのか、証明出来る人はこの世には居ない。
それは証明するものではなく自由に選ぶものなのだ。
以来、その者の善意を信じて生きている。

死を迎えた後に、それが間違っていたとしても、それでも良いと思っている。
その者の善意を信じなければ、悪意や気紛れで在らしめられているとしたら、とても最後までこの苦しい生を生きて行けないだろう。