ここまでは、SMAPと嵐の「国民的アイドルとしてのピーク」について見てきました。

 

それでは、前回設定した国民的アイドルの基準値①②を超えたジャニーズは、SMAPと嵐以外にいないのでしょうか?

 

もちろんいるのです。

 

年表にSMAPと嵐以外のアイドルを加えてみると、そこから見えてくることがあります。

 

ここからは、ある程度の批判は覚悟で、「忘れられた国民的アイドル」について分析していこうと思います。

 

 

 

 

 

■国民的アイドルの2指標■

基準① CDセールス(1991~2001年100万枚以上/2002年~60万枚以上)

基準② ドラマ視聴率主演級ドラマ視聴率が25%以上)

 

 

 

国民的アイドル年表

1991年

1992年

1993年 

1994年 

1995年 キンキ金田一少年1キンキ家なき子2

1996年 SMAP SMAP キンキ金田一少年2

1997年 SMAP キンキ硝子の少年キンキ愛される

1998年 SMAP SMAP キンキ全部抱きしめて

1999年 キンキフラワー滝沢魔女の条件

2000年 SMAP SMAP SMAP

2001年 SMAP

2002年 SMAP

2003年 SMAP SMAP

2004年 SMAP SMAP SMAP

2005年 SMAP 亀梨山下青春アミーゴ

2006年 SMAP KAT-TUNReal Face

2007年 SMAP

2008年 SMAP

2009年 

2010年 

2011年 

2012年 

2013年 

2014年 SMAP

2015年 

2016年 

2017年 山下コードブルー3

2018年 キンプリシンデレラガール

2019年 

2020年 スノストImitationRain/D.D

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キンキは国民的アイドルだった

 

 

まず、上記の年表を見て、どうしても無視できない事実があります。

KinKi Kidsは、「国民的アイドルだった」という事実です。

 

具体的には、堂本剛主演「金田一少年の事件簿1」(最高視聴率29.9%)が放送された1995年から、「硝子の少年」(179万枚)でデビューした1996年を挟んで、最後の基準超えとなった「フラワー」(105万枚)が発売された1999年までの5年間は、少なくとも「国民的アイドル」と認定せざるを得ません。

 

さらに年表でわかるように、キンキはSMAPと同時期か、むしろSMAPより一足先に「国民的アイドル」といえる位置にいたのです。

 

当時、キンキはドラマ以外にも多数の冠番組を抱えていたようですし、のちに2人は「忙しすぎて記憶がない」と振り返っています。

今回、過去動画を見て一番衝撃的だったのは、「LOVELOVEあいしてる」という番組です。

その音楽的クオリティーの高さ、トークのおもしろさ、出演陣の豪華さ、こんな番組を10代の少年がやっていたのかと正直驚きました。

 

2人はドラマでも数々の輝かしい実績を残しています。

過去30年のジャニーズ主演ドラマの最高視聴率ランキングでは、1~7位はキムタクドラマですが、8位に金田一少年が入ります。

木村拓哉以外で最も視聴率をたたき出したジャニーズは、実は堂本剛なのです。

 

剛君の歌唱力やタレント性、10代特有の美しさは目を見張るものがあり、国民的人気を得たのは当然だと感じたし、「あ、ここに天才少年がいる」と素直に思いました。

 

キンキは、2000年代に入っても歌やドラマでヒットを飛ばし続けますが、10代の頃のように基準①②を超えることはなくなってしまいました。

その意味では、KinKi Kidsは、「国民的アイドル」というよりは、90年代後半の「カリスマ少年」「国民的少年アイドル」と形容した方がいいのかもしれません。

 

なぜ、キンキがSMAPや嵐のように20代30代を通じて国民的アイドルであり続けられなかったのか、あるいはそうであることを拒否したのか、その辺の事情は自分にはわからないし、詳しい分析はファンの方に譲ります。

 

データ上だけで言えば、2000年代に入ってSMAPが国民的アイドルとして怪物化していくので、言い方は難しいですが、「時代がSMAPの方を選んだ」という見方もできるかと思います。

とはいえ、SMAPと嵐が40歳前後で解散や活動休止を選択する中、キンキがいまなお第一線で活躍を続け、多くのファンに愛されていることは、掛け値なしにすごいことです。

 

天才的な2人によって結成された唯一無二のアイドルデュオ、この奇跡の出会いに感謝するほかありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう1人のカリスマ少年タッキー

 

 

さて、キンキの2人のほかに、「カリスマ少年」「国民的少年アイドル」と呼べる人がもう1人います。

タッキーこと滝沢秀明です。

 

年表に顔を出すのは、「魔女の条件」(1999年・最高29.5%)で高校生役を演じた1回のみですが、タッキーがリーダーを務めていた当時の「ジャニーズJr.黄金期」はいまや伝説となっています。

当時を知らないので数値以外でその時代を評価するのは難しいのですが、デビュー前ながらドラマ出演やJr.冠番組のMC、ドームコンサートなどを次々と成功させていたということは、今回のデータに表れないパワーをタッキーは持っていたということなのだと思います。

 

2002年に20歳で「タッキー&翼」としてデビューしたときには、既に人気はピークアウトしていたとみられますが、絶頂期にデビューしていたら、1999年に嵐に加入していたら、タッキーのアイドル人生はまた違ったものになっていたのかもしれません。

結果論で言えば事務所の戦略ミスだったのか、時代の巡り合わせだったのか、それはわかりませんが、数値化が難しいデビュー前に「国民的アイドル」と呼んでもいい時期があったのはおそらく間違いないでしょう。

 

ただ、国民的アイドルの要件の1つに、「年齢の壁を超える」ことを加えるとするならば、結果的にタッキーもキンキも国民的人気を博していたのは10代が中心で、本当の意味で国民的アイドルと呼べるかは難しいところです。

 

もう1つ指摘するとすれば、嵐も関ジャニ∞も、いまだにジャニーズ主力メンバーは、「Jr.黄金期」出身だということです。

そう考えると、嵐らを生んだ黄金世代のリーダーとしての功績は計り知れませんし、個性的なメンバーをまとめる手腕にこそ、滝沢秀明の真骨頂があるのではないでしょうか。

 

彼が経営者としての道を選択したのは、自然の成り行きだったのかもしれません。

ジャニー社長亡き後、滝沢副社長が新たな黄金世代を育ててくれることを期待したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幻の国民的アイドルKAT-TUN

 

 

先に書いたように、SMAPのピークが1998年~2004年、嵐が国民的アイドルに就任したのが2007年。

つまり、2005年~2006年はある意味、「空白期」といえます。

この「空白期」に彗星のごとく現れたのが、KAT-TUNです。

 

2005年はSMAP人気がピークアウトし、メンバーも多くが30代に突入していました。

世間が次の国民的アイドルを求めていたのです。

 

そんな中、2005年に放送されたのが「ごくせん2」です。

主演級とはいえないため年表には入れていませんが、亀梨・赤西君が生徒役で出演、平均視聴率は28.0%に達しました。(ちなみに松潤出演の2002年「ごくせん1」は17.4%)

 

国民的アイドルになるためには、必ずその前段として、国民に発見されるきっかけとなるドラマがあります。

個人的に『ブレイク前夜ドラマ』と呼んでいます。

主役ではなけれど、脇役として注目され、出演メンバーが所属するグループがブレイクのチャンスを掴むドラマです。

 

SMAPにとってはキムタクの「あすなろ白書」(平均27.0%)、キンキにとっては「人間・失格」(平均19.2%)、嵐にとってはこれは準主役ですが松潤の「花より男子1」(平均19.8%)が、『ブレイク前夜ドラマ』に当たると思います。

 

2005年には「ごくせん2」(平均28.0%)のほかに、亀梨主演の「野ブタ。をプロデュース」(平均16.9%)もあり、このドラマでは「修二と彰」が歌う主題歌「青春アミーゴ」がミリオンセラーとなりました。

こうしてブレイクの法則にのっとり、さらにSMAPにかわる国民的アイドルの需要が高まる中、KAT-TUNは満を持して、2006年3月に「Real Face」でデビュー、ミリオンの大成功を収めます。

 

ところが、翌年2007年に国民的アイドルの座を射止めたのは、KAT-TUNではなく嵐でした。

嵐はKAT-TUNの7年も前にデビューし、人気は一時停滞していました。

一体、何があったのでしょうか。

 

KAT-TUNが失速した要因の1つは、2006年10月に赤西君が留学してグループを短期離脱したことだと思われます。

さあこれからというときに、絶大な人気を誇ったツートップの1人を失ったのは打撃でした。

また、KAT-TUNはジャニーズには珍しく不良性を売りにしていましたが、国民的アイドルは老若男女に幅広く支持される必要があり、正統派の嵐に比べ、その点も不利に働いたかもしれません。

 

歴史にifはありませんが、明智光秀の「三日天下」のように、結果的にKAT-TUNの天下取りは「幻」に終わりました。

ただ、KAT-TUNは実験的で革新的なグループであり、確実に次の国民的アイドルとして期待されていたし、そうなっていた可能性が十分にあったのは歴史の事実だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第4のスーパーアイドル山P

 

 

国民的アイドルの基準①と②の両方をクリアしているのは実は4組います。

キンキ、SMAP、嵐、そして山Pこと山下智久です。

 

2つの基準を満たしている山Pですが、①は「青春アミーゴ」(2005年)という期間限定ユニットによる曲で、NEWSとして、ソロとしては基準値を超えていないこと、また②は2017年の「コードブルー3」で、ブランクが12年もあることなどを考慮し、「国民的アイドル」としての認定は見送りました。

 

一方で、12年のブランクを経て大ヒット作に恵まれること自体が異例です。

「Jr.黄金期」出身で、音楽活動と俳優活動の両面でこれだけ長期にわたって国民的人気を獲得しているのは、嵐と山Pだけです。

 

さらに、海外ドラマ進出など新たな挑戦を続ける山Pは、間違いなく現役のスーパーアイドルと呼べるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事務所にとって「特別な5人」

 

 

ここまで、国民的アイドルと認定したSMAP・嵐・キンキ、基準を超えながらも国民的アイドルの認定は見送ったタッキー・KAT-TUN・山Pの計6組を分析してきました。

この6組が「国民的アイドル盛衰史」において、重要な役割を果たしてきたというのは理解いただけると思います。

 

では、ここ30年の歴史でジャニーズ事務所にとって「最大の功労者」は誰か。

 

事務所の立場に立って、5人挙げるとすれば、以下になると思われます。

 

木村拓哉

中居正広

堂本剛

滝沢秀明

松本潤

 

もちろん自分の推測ですが、たぶん合っていると思います。

 

前の4人がなぜ事務所にとって特別な存在かは、これもこれまで書いてきたことを読んでいただければ説明不要かと思います。

では、なぜ嵐の中では松潤なのかについては、説明が必要だと思うので、補足します。

 

まず、嵐ファンの方に誤解してもらいたくないのは、誰が欠けても嵐が国民的アイドルとして成立しないという点です。

これは大前提です。

活動休止の経緯を見てもそれは明らかです。

 

そのうえで、今回、ジャニーズの盛衰史を分析する中で学んだのは、大多数の国民に認知され支持されるアイドルになることが、いかに難しく、いかに奇跡的なのかということ。

 

そして、そのドリームを掴むためには、第一に「注目を浴びるきっかけのドラマ(ブレイク前夜ドラマ)」、次に「国民的アイドルとして直接ブレイクするドラマ」、2本のドラマを数年内に送り出さなければならないという、極めて困難な法則があるということです。

 

この奇跡を実現したのが、SMAP・嵐・キンキの3組でした。

 

KAT-TUNの項で少し触れたように、SMAPにとっては「あすなろ白書」(1993年)があって「ロンバケ」(1996年)、キンキにとっては「人間・失格」(1994年)があって「金田一少年」(1995年)、そして、嵐にとっては松潤の「花男1」(2005年)があって松潤の「花男2」(2007年)です。

 

膨大な時間とコストをかけて育成したタレントの中から、国民的アイドルになるのは、ほんの一握り。

どんなに才能があって、どんなに努力しても、チャンスに恵まれなかったり、チャンスを生かせなかった人が星の数ほどいることを思うと、また事務所の経営面からも、このきっかけを掴むことが何よりも重要であるということが、自分のような素人にもなんとなくわかってきました。

 

松潤が事務所に特別扱いされていると不満を感じるファンの方もいるそうですが、松潤の功績は実際大きかったといえると思います。

 

ちなみに、自分は嵐の中では二宮担です。

 

 

 

つづく

 

次回は「ポスト嵐の国民的アイドル」についてです。