障害を経験したアノ馬 ~メジロパーマー~ | 踏み切ってジャンプ

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やはりこの馬は書かなきゃいけないでしょう。


途中まで書いて途中で記事が消えてしまいましたが、再チャレンジで書きます。




メジロパーマー


父 メジロイーグル

母 メジロファンタジー (母の父 ゲイメセン)



何と言っても母の母プリンセスリファードが良血馬。

種牡馬モガミの全姉に当たります。

モガミはシンボリ牧場とメジロ牧場が共同で競り落とし、種牡馬として輸入後は初年度からダービー馬・シリウスシンボリを輩出。

翌年には初の三冠牝馬・メジロラモーヌを出しました。

その後は障害専門種牡馬となったかの如く、シンボリ牧場とメジロ牧場に数多の障害タイトルをもたらし、晩年はレガシーワールドでジャパンカップを、ブゼンキャンドルで秋華賞を制しました。


メジロパーマーの姉(メジロポーラ)の仔であるメジロスズマルは、カシオペアSで無敗のダービー馬・フサイチコンコルドを完封していますね。


その他では目立った産駒はこの一族からは出ていませんが、どちらかといえば地方競馬で勝利を挙げる馬が多かったです。




さて、このメジロパーマーですが、歴代のメジロの馬の中での獲得賞金は第5位。


第1位 メジロマックイーン

第2位 ○○○

第3位 ▲▲△

第4位 メジロライアン

第5位 メジロパーマー


となっており、同世代のメジロマックイーンとメジロライアンを含めて、上位5頭のうち3頭でほとんど占めています。

さらに、上記の○○○と▲▲▲も、この3頭のうちどれかに深くかかわる馬であり、メジロの全盛期だったことを伺わせていますね。


ちなみに早速脱線ですが、多くの馬主さんは冠名+単語という名前をつける時、その単語にはある共通点を持たせることが多く、この年(1987年産)のメジロの牡馬には色々な分野で活躍した有名人の名が付けられました。


メジロマックイーン=スティーブ・マックイーン(俳優)

メジロライアン=ノーラン・ライアン(メジャーリーグ)

メジロパーマー=アーノルド・パーマー(ゴルフ)

メジロルイス=カール・ルイス(陸上)

メジロマッキャロン=クリス・マッキャロン(騎手)

メジロピンカイ=ラフィット・ピンカイ・Jr(騎手)

メジロギアー=リチャード・ギア(俳優)

メジロカーター=ジミー・カーター(米大統領)

メジロタイソン=マイク・タイソン(ボクシング)


などが一例として挙げられます。



さてメジロパーマーに話を戻します。


この馬のデビューは1989年8月12日の新馬戦。

このレースは2着となり、続く折り返しの新馬でも2着。

初勝利は9月8日の未勝利戦でした。


初勝利の余勢を駆ってコスモス賞(OP)を連勝してOP入り。


しかし、そこからしばらくは勝てず3勝目を挙げたのは約2年後の1991年6月。

札幌での十勝岳特別(500万下)でした。


その年の天皇賞・春(降級前なのでメジロパーマー自身のクラスは900万下)にも出走しましたが、ここではメジロマックイーンの13着と惨敗しています。


が、その十勝岳特別を勝って再び900万下に昇級すると、札幌記念(当時はハンデのGII)に挑戦。

これを見事勝利します。


その後は巴賞、函館記念、京都大賞典と戦うもいずれも敗戦。


そこで陣営は障害入りをすることを決意します。



・・・とはいえ、実はメジロパーマーの障害入りはこの1年前にはすでに検討されており、この時点で障害練習は始められていたんですね。

が、復帰初戦を2着し、その後特別、重賞と連勝したことから障害入りはお預けとなっていたんですが、さすがに一線級が相手、しかも別定戦や定量戦では歯が立たず、1991年秋に障害入りすることとなりました。


初障害は1991年11月2日。

圧倒的な1番人気に推されると、このレースを6馬身差での大圧勝。


続く障害400万下でも1番人気に推されましたが、ここではアインカイゼルに4馬身の差をつけられて2着。


このまま障害での活躍も期待はされたんですが、陣営はここであっさりと障害を諦めました。


理由は・・・飛越がヘタだったから。


何せ、レースが終わって帰ってくると、腹も脚も傷だらけ。

これでは事故につながりかねないと判断されたためでした。



その後はOP特別、天皇賞・春を連敗した後に新潟大賞典を逃げ切り勝ちし、宝塚記念に向かいました。


この宝塚記念はメジロマックイーン不在。

メジロライアンも不在。

GI馬といえばダイタクヘリオスとダイユウサクのみ。



この頃のメジロパーマーは山田泰誠騎手を主戦に迎え、『逃げ』というレーススタイルも確立している頃でしたね。


9番人気でレースに臨んだメジロパーマーは追いすがる1番人気・カミノクレッセを寄せ付けず、3馬身差でGI初勝利を挙げます。


夏を越し、京都大賞典、天皇賞・秋と惨敗を続けますが、有馬記念ではまたもやその逃げ足を見せ、レガシーワールドをハナ差抑え切っての春秋グランプリ連覇を達成。


この年の最優秀5歳以上牡馬(現・最優秀古馬牡馬)および最優秀内国産馬(現在は無し)に選ばれました。



年が明けた1993年。

春初戦に選んだのは阪神大賞典。

このレースは11頭立ても、ほぼ三つ巴の様相。


ブロンズコレクター・ナイスネイチャ

エリザベス女王杯優勝馬・タケノベルベット

そしてグランプリホース・メジロパーマー


人気もこの順で、ナイスネイチャは鞍上を松永昌博騎手から南井騎手に変えての3着からの脱却を目論み、タケノベルベットも武豊騎手を配しての参戦。

しかし、勝ったのはメジロパーマー。


いつも通りの逃げを見せ、向う正面では一時20馬身以上のリードを保つも、最後の直線でナイスネイチャに並びかけられます。

一介の逃げ馬ならここで試合終了なんですが、この頃のメジロパーマーはここからが凄かった。


二の脚、三の脚を見せ、再び盛り返すと、バテたのはナイスネイチャの方で、最後はこの2頭にタケノベルベットが割って入る形でゴール。


3分9秒2は当時のレコードタイムでした。



続く天皇賞・春は、メジロマックイーンがこのレース3連覇をかけてのレースでした。

メジロパーマーは4番人気に推され、いつものレースぶりを披露しますが、このレースは相手が悪すぎましたね。


勝ったのはライスシャワー。

レコードブレイカ―の異名に違わず、ミホノブルボンの三冠を阻止するだけでなく、メジロマックイーンの天皇賞・春3連覇をも阻止。

メジロマックイーンは2着。


しかし、メジロパーマーも逃げたにもかかわらず上がり3ハロンは推定37秒0のメンバー中第3位。

しっかりと3着を確保しました。


その後は宝塚記念(10着)、京都大賞典(9着)と走り、その次に出走したのはなんとスワンS。

これまで中長距離を専門に走って来たこの馬が、マイルCSの前哨戦に出走してきました。


さすがにこの距離(1400m)ではペースが違ったか、逃げることすらできず10着に敗退。


再び中長距離線に進み、ジャパンカップ、有馬記念を戦うも惨敗。



年が明けて1994年。

日経新春杯に出走しますが、ここで課された負担重量は60.5kg。

このレースをムッシュシェクルの2着して現役を引退します。



引退後はアロースタッドで種牡馬となりますが、代表産駒といえるのは京都ハイジャンプを勝ったメジロライデンくらいかもしれませんね。

もっとこの馬の産駒を障害で見たかったと思いますが、現在は種牡馬も引退し、功労馬となっています。




現役時代はGIを2勝挙げていますが、メジロパーマーのベストレースは今でも阪神大賞典ではなかったかと、私自身は思っています。


とにかく速くて強い逃げ馬としては、後にサイレンススズカが現れましたし、この時代にもミホノブルボンがいましたが、粘っこくて強いと思った逃げ馬はこのメジロパーマーが今のところ最初で最後かもしれません。








【投稿者】 ぼやっきー