第5回目は
リターンエース
を紹介。
リターンエース
父 ビゼンニシキ
母 キークライネ(母の父 プロント)
1988年4月9日生
1999年9月25日没
この馬の凄いところは障害入り後全勝というだけでなく、道中のポジションと着差でした。
前の記事(アワパラゴン)の際に、障害重賞グランドスラムに王手をかけた数少ない馬ということで紹介しましたが、このリターンエースも障害重賞グランドスラムに王手をかけました。
デビューは1990年9月16日の3歳新馬。
悪天候・悪馬場の中、2番人気に推されるも3着に敗れた。
連闘で臨んだ新馬戦も同じく2番人気で3着。
初勝利はデビューから4戦目の未勝利だった。
その後は勝ったり負けたりを繰り返しながら、コツコツとクラスを上げ、障害入りするまでの間に中日新聞杯、京阪杯、金鯱賞、阪急杯の4重賞に出走。
特に1992年の金鯱賞では9番人気ながら武豊騎手に導かれ、イクノディクタスから2馬身差の2着に入る健闘を見せた。
以降、一旦1500万下(現1600万下)に降級し、再度OP入りしたが勝つことはできず、1994年10月23日に障害初戦を迎えることとなる。
リターンエースは元々障害馬としての素質があったのか?
障害未勝利を、初障害ながら1.7倍の1番人気支持され、2着以下に大差をつけて堂々の優勝。
続く障害2戦目の400万下は1.3倍の1番人気で2着に3馬身差をつけての逃げ切り。
3戦目の障害OPでは1.9倍の人気となり、2着に5馬身差の圧勝。
4戦目も障害OPを使い、2着に7馬身差をつけて逃げ切った。
障害転向5戦目にして、初めて重賞に挑戦する。
向かったのは1995年2月11日の東京障害特別(春)。
ここでリターンエースが課せられたのは、62kgというハンデキャップ。
(しかもトップハンデ。)
障害重賞初挑戦ではあるが、これまでのレース内容と結果から考えれば、決して重いハンデではなかった。
このレースでも1番人気に推されるが、ここで初めての2倍超え。
2.3倍だった。
結果は・・・。
何も心配する必要は無かった。
道中を2番手で進み、襷コースを過ぎた2周目2コーナーで先頭を奪うと、2着に大差をつけて重賞初挑戦・初勝利を飾った。
入障後5連勝となり、6戦目に選んだのは阪神障害S(春)。
このレースもハンデ戦で、課せられた斤量は64kg。
一方でファンの評価は1.4倍の圧倒的人気。
レースの方も、終わってみればスタートから終始先手を取り、ついに誰にも前に行かせることなく逃げ切り勝ち。
続く障害7戦目は京都大障害(春)。
ここでついにファンの評価は単勝1.1倍という極めて高いものとなった。
レースぶりも全く心配ご無用。
これまでと同様に、スタートから先手を奪うと、あとは一人旅。
終わってみれば、2着タマモモノノフとは9馬身の差がついていた。
この時点で入障後7連勝となり、残るは中山大障害のみ。
これを制覇すれば、障害重賞グランドスラムの達成となるわけだが、陣営には1つの考えがあった。
中山大障害に臨むためには障害を10戦ほど経験させる必要がある。
そのため、春シーズンは中山大障害を使わず、秋に京都東京のOPを叩いて中山大障害に向かうプランを打ちたてた。
が、放牧先からの帰厩後に脚部故障を発症し、引退することとなった。
引退後は東京農工大学の馬術部で乗馬となったが、屋外走行中に転倒。
同日、予後不良と診断された。
1990年代半ばには、アワパラゴンやリターンエースなど、誰も見たことの無い『障害重賞グランドスラム』にリーチをかけた馬が出現しました。
が、いずれも達成することなくターフを去っています。
一方で、それらの共通するのはスピードタイプの障害馬であり、特にリターンエースの場合は障害7戦の中で中山コースへの出走は一度もありませんでしたから、果たして適性があったのか否かは謎のままということになってしまいました。
また、リターンエースは障害馬としての素質も然ることながら、平地OPの実績もありましたので、障害初戦で圧倒的人気に推されたのも、理由としては成り立ちますね。
次回(第6回)は、ウインマーベラスを紹介します。