林檎の地獄 | じぶん改革~さえない女子大生の奮闘記~

林檎の地獄

硝子ケースに囚われた真紅の林檎。アンティークのテーブル上には充分すぎる芸術品だ。蝋で表面を覆われた、むしろ蜜蝋そのもののような艶めいた照りを持つ林檎。私の視線を奪う。しかし、同時に何かが足りないと感じさせるものだった。この芸術品を完成に導こうとさせる、むず痒くせり上がってくる熱情。身体を支配されそうな感覚に私は思わず眼を逸らし、窓の外に視線をやった。

おとつい、近所で腐乱死体が見つかった。そのため刑事や野次馬、マスコミによって閑静な住宅街はすっかり騒がしいものへと化していた。私はあまり喧噪を好まない。けれど、硝子ケースの紅をさらに輝かせるものはきっと外に存在しているはずだ。確かに単なる直感に過ぎない。けれど、その唐突な考えを信じていけるほど私は林檎に毒されていた。

「……完璧なものにしなくては」

アンティークを彩るだけのものに収める気は、毛頭ない。人をこれほどまでに高ぶらす、これこそが真の毒林檎に違いない。

手短に準備を済ませ、私は何日かぶりの外気に触れた。まだ捜査を続ける警官やカメラを回すマスコミも、ちらほらといるようだ。昨日よりは静かになった住宅地に私は自然と歩を速めた。

 山を削ってつくられたこの高級住宅街は、やはり事件などがなければ人気は少ない。現に、死体の発見現場から少し離れた林につくと凛とした空気がそこにはあった。緑化計画をすすめる市の方針で、この住宅地にも自然が埋め込まれている。死体が発見されたのは、今私が足を踏み入れた林よりもう少し下に位置する溜め池である。そこで二十代前半の女性の腐乱死体が見つかった。事件については、まだ謎が多い様で近隣住民ですら情報は少ない。もちろん、私が近所の付き合いを全く持たないことも情報伝達の遅い要因の一つとも言えるだろう。

 そういえば五日ほど前から雨が降り続いていた。今朝方、ようやく止んだのだが腐葉土になりかけた枯葉が湿って、危うく足を取られそうになる。

「くっ」

 すんでのところで踏みとどまったものの皮靴はすでに泥まみれとなっていた。これ以上林の奥へ進むこともおそらく困難だろう。滑りかけた時に足を捻ってしまったらしく、不安定な腐葉土の上を歩くたびに踝のあたりに疼痛が走るのだ。せっかくの外出だったが、このざまではあの林檎に見合うものは手に入らないだろう。ゆっくりと私は、踵を返した。

「……これは?」

 足元に蠢くものに、ふと気付く。私は慌ててセカンドバッグからシャーレを取り出した。

 家につくなり、私は靴も脱がずに大股で林檎のある部屋へと向かった。泥だらけの靴とフローリングが擦れたような音を何度もしたが気には留めなかった。ようやく部屋につき、乱暴にドアを開けると林檎の芳香が漂ってきた。一気に林檎への欲求が高まる。私は被せていた硝子ケースを一旦傍に退け、採取したものをピンセットで丁寧にシャーレから林檎の上へと移す。

「ふ、ふははははは」

美だ。これこそが私の求めていた美、芸術だ。真紅の林檎の上に、光を孕んだようなクリーム色。林檎は映える、蛆虫の下で。

それから二三日経つと林檎の腐敗が始まった。蛆が這いずり回る、そのフォルムが次第に崩れていく。茶褐色へと変色していく真紅だったもの。けれど、恍惚とさせる香りはまだまだ健在だ。

さらに一週間ほど経つと林檎はすっかり腐り落ちてしまった。そして蛆虫もまるで林檎と生を共にしたかのように硝子ケースの中で干からびていた。私はそれらを眺めながら爽やかな朝に食パンをかじる。ジャムなどは塗らない。熟れすぎた果物の放つ芳香、乾燥した蛆が発する硝煙に似た匂い。鼻腔を擽る香気を食パンに添える。

『三栖野警察は、殺害現場を――と断定し……』

 ジャズを聴くためにつけていたラジオから突然ニュースが流れ始めた。

『殺害された――さんの物と見られる赤い鞄が発見された林が……』

 場所のことを考えれば致し方ないのだが、ラジオには多少雑音が混じっている。おかげで重要な部分が聞き取れない。しかし三栖野とは私の住んでいる、この市の名前だ。ともすれば、ニュース内容は先日の事件のことなのだろう。

『発見現場から近』

私は、ラジオを消すと食パンをもう一口頬張った。

林、十日ほど前に私の行った林だろう。どうやらあの場所で人が殺されていたらしい。私は、硝子ケースの中で動かなくなった蛆虫をじっと見つめた。

がたっがたがたがたっ

硝子ケースが騒がしい足音に揺れる。

「高野亨だな?」

背後からの声に私はゆっくりと振り向いた。そこには三人の男が立っていた。私の名前を確認した男が胸元から出したものを見て、私はもう一度だけ大きく部屋の匂いを吸い込んでから、笑った。