10日の夕方の火災のニュースをテレビで見かけ、あの工場か、と思った。一時避難を余儀なくされた地元の方々、工場の従業員の方々には、心からお見舞いを申し上げます。


ところで、日東化工さん、寒川駅から西南西に行ったあたりの、工業用ゴムを製造する工場ですが、鉄道ファン、特に乗り潰し派のファンにとっては聖地です。昭和58年度末(もちろん、国鉄時代)に、この寒川駅から1区間だけ伸びていた、相模線の枝線が廃止になりました。漱石の猫のように、この枝線には名前はありませんでしたが、乗り潰し趣味に市民権を与えた、故 宮脇俊三氏が、昭和51(1976)年4月の週末、乗車されている。貨物輸送で始まった路線で、最後は旅客輸送だけになったのだが、利用者は少なく、氏が乗られてから8年足らずで廃止になっている。が、その足跡は、デビュー作「時刻表2万キロ」第5章に記されている。

所用で同僚と熱海に行った帰りに寄るのだが、茅ヶ崎で途中下車。この、味気ない1区間に乗るため、わざわざ茅ヶ崎からタクシーで「西寒川」に向かうのだが、タクシーの運転手がそんな駅を知っているはずもなく、苦労して説明して、何とか現地についたそうで、運転手の「あれらしいな。何だ、日東タイヤの裏か。」とつぶやく。そう、この時点では、昭和24年以来の会社名「日東タイヤ」を名乗っていたのです。その他ゴム製品に手を広げたのち、昭和57年に、タイヤ製造部門を譲渡し、会社名も変更されたそうです。その後2年で、西寒川駅は廃止。宮脇俊三氏の旧跡「西寒川駅」は、タイヤ製造ラインとほぼ同時になくなった、ということなんですね。駅がなくなってしまった中、西寒川駅側の廃線跡を歩ける公園などもあるようですが、もうひとつの大切な旧跡「旧 日東タイヤ 跡」に残る今の「日東化工」さん、業態が変わっても、元気で営業を続けて欲しいなと思います。 周辺にお住まいの方々にお見舞いを申し上げるとともに、工場の復興も進み、「日東」の名前が消えないといいなぁ、と、一鉄道ファン、乗り潰しパート、としては思う次第です。 頑張ろう、日東化工、です。