今日思うこと

私は今考えるとんなことについて本当は仕組みがあると思う

いろんなことを考えることも、本当にこれが自分の考えであるかどうかさえわからず、もしかすれば、生き物のように考え方や、物事の発想考えることも、そして例えば恋愛をすることも、例えば喧嘩をすることも。


どこかの誰かが同じような体験を同じようなやり方で同じような考え方で、それと同じことを自分も初めてのことだと思いながら、誰かと同じ考え誰かと同じ発想誰かと同じ出会いの仕方、体験してるのかもしれないと思うんです。



勝手な話でもうそうなものとして聞いてくださいへ。

1つは1人だけの考えでいろんなこと思いつくこと自体不思議でたまりません。あえて接触してないのに何か思いつくこと自体何か変だと思うんです。


私が重要に思っているのは、リアルに生きている事はもちろんですが、生きることにはもう一つの流れがあると思うのです。



スピリチュアルとかではなく、昔からある生きているときにいろんなことが起きて考えていくと言うこと。



何度見ても何度考えても、 1つのことを何人かで結果が出ることを見ている。そしてその時に自分が嫌でも嫌なことをしながら1つの結果を出しながら相対的に1つのことを作り上げていくと言うことを見ていました。


例えば喧嘩をしても、例えば仲直りをしても、例えば1つのプロジェクトで仕事をしても、例えば1つのことを競って何かを勝ち取ろうとしても、例えば誰かがいじめられてそれをどういう風になるかと言うことで論議していても、例えば何かが起きていてもそれを見ながらあーだのこーだの言ってる自分がいたり、

つまりはすべて1つの事について何らかの協力した1つの形をとっていると思うのです。またその中でやりたくない事でもやっている知らずにいろんなことをしていると言う事は、自分であって何かが動き始めると大抵するためにやっていることが何かおかしいと思うのです。誰かが中心になって動いていることもあれば自分が中心になって動かしていることもあり、しかしながらそれは全員で1つのことに向かって何かをやっていると言うことかな


私はそう思います。


つまりいろんな配役をもらった俳優のように、知らずにみんなが1つのことをいろんな役をこなしながら、知らずにいろんなことを作り上げていっているんではないかと思います。



知らぬ間に悪役になっていたり、死ぬまでそういったことを繰り返しながら私たちは生きているのではないかと思うのです。



だけど本来の自分は全く別の気持ちで生きていたり本当の自分をまた素直になれずに生きていたい周りとのいろんなやり方の中で切磋琢磨され心の中でいろんなことを思う。



その時の自分の本当の本音は子供のような自分である。



それを思うと、全員が大人として見ると言うよりもみんなまだまだ死ぬまで成長していく子供ではないかと言うふうに捉えていろんなことを見ていくとなぜだか夜中のことがわかりやすくなりました


インナーチャイルドがとかではなく、それぞれの人間性それぞれの生き方は本人のもともと持っているものを100%出しながら生きると言う事はなかなか難しいと言うことで、人と合わせるために装うことで成り立っていると思うのです。


つまり接触する人によって自分を変えながら合わせていくと言う事は、自分以外の人たちもそれをすると言う事は、同じ人に対して同じものの見方や同じ価値観で同じ同一人物に対して思う気持ちもそして向こうが友人と私にすることさえも、違うのは。。。



誰かもまた私と私の友人とを、認識しながらこの人はこういう人だからこういう風に話をしようとかこの人はこういう趣味があるからこういう話がしてみたいとかなど、自然と変えながらそんな人に接触していると言うふうに思いました。


そうすると同じ人に対してやりとりが全員が変わってしまうと言う事ですので、 1人の人に対して周りの人からいろんなことを話をしたときに全部違う面を見ていること等のではないかと思いました。


大きなズレは無いにしろ、少しずつ違う面を私もいろんな人とのやり取りでかえながらいきてると思いました


となりますと、私の周りにいる人たちは私に対してだけの顔を持つ人で私とやりとりをしてくれますので、他の人が思う誰かとは大きくずれた誰かと、つまり同一人物の人でも他の人とは違うやり方で私と接触していることになります。



つまりは私の世界観は少しずついろんなことが違う人たちだらけの中で生きる私にない


他の人の世界観は、私とは違う少しずれた周りの人たちとのやり取りの中で作られた世界観になり


一人ひとりの人生における世界観そしてやりとりは、周りの人たちからのイメージによって作られた私とのやり取りで構築したものになるため、




私自身が見ている世界観とまるで違うものを皆が見ていることになります。そういった中でみんなが集まって生きると言う事は、基本的な考え方が同じだとしても、一人一人が見ている世界観は全く別物と言うことになります。意外でした。と言うよりも全く別物と言うよりも少しずれた世界観で同じものがないと言うふうに私は思いました。



私たちは自然の子と同じようなものだと思って価値観も全てを共有したいと思いますか。なかなかそれができない理由は、同じ価値観は1つもないと言うことになりますのでなかなか難しい問題ではあります。




何かのトラブルが起きたときまた何かのトラブルを起こしてしまったなど1連の周りで一緒にやっていく発生源となることもありますが、周りの人が発生源になり1つのことを向き合っていくきっかけになり何かを一生懸命みんなでやることもあります。


その時に学んだりするときには別の価値観でないといろんなことを学ぶことができず、体感することも違う人間同士ではないと認識することが難しいため、同じ価値観の中だけで何かを変えていく事は難しいと言うこともあるためなかなか同じような価値観でいろんなことを見ていく共感していくと言うことよりも違う意見また違ったものに形の中でいろんなことを学んでいくと言うことの方が、大変ではありますが、見に染みて体験していくことについては生きるをたくさん感じるのではないかと思いました。


つまりはいろんなことについて体感しながら生きていると言うことを精一杯謳歌すること、それこそが生きると言うことであり、そのためにいろんなトラブルが起きいろんなことをみんなと解決していくようになっているのではないかと思いました。また一人ぼっちで解決するようなこともあり、それもまた体感することで何かを学び勝ち得ていくものかもしれません。



辛いことや苦しいことを体験することもたくさんあります。しかしながらどうか皆さんもどうかそこについて肯定的にいろんなものを眺めてみてください。


自分だけではなく生きると言うことを選択しながら皆が切磋琢磨していると言うよりも生き抜くための選択でいろんなことが起きそしていろんなトラブルに見舞われながらも生きていくことこれは、生きるということを精一杯謳歌するために起きているそして配役があって自分で操作することができない中でやり終えていく。その時にどういう風な結果になろうがそれぞれの思いを持って生きたことになると言う事は、



私たちは協力しながらいろんなことを学ぶために生まれているのかもしれないと言うふうに勝手に結びつきました。というか私はそう思いました


いつかいろんなことについてしっかり考える時期が私にも来るかもしれません、そんなときのために私はこれを使い書き残そうと思います。


僕もみんなも一生懸命生きている。だけどもみんな同じだと思えず孤独を感じる。それでも生きているを叫んでいる僕や周りの人や、大人も子供も老人も、動物も木も植物も。生きていることを感じながら精一杯叫びながら生きると言うことをしているのかもしれません。


そしていろんな事について考えたことについても、そういう考えや発想も生き物として存在し、トラブルが起きたらいろんなことがあったりするときに配役のパーセンテージによりその内容を渡され感じ取りああだのこうだのとやっているのかもしれません。



僕たちはもしかしたら、とても面白い、生きるを体験するためにこうやって生きているのでしょう。だけれどもそこについてはマイナスに感じ取る力の方が慣れ親しんでいるために、肯定的に捉える事は難しいのだと思います。どんな人もどんな時も選択肢の中で生きるを知らずに生きると言うこと。




それはとても不思議でそれはとても愛らしくそれはとても勇気ある決断でありそれはとても尊く感じます


どうか、自分のことを大事に思えなくなる朝も、周りの人たちとトラブルに見舞われる日々も中で、自分の生きる力を信じていくことこの繰り返しを私は常に思います。常にと言うより切に思います。


僕たちは本来は1つの塊として生きている生命体の11部であること忘れてはならないと思いました。この地球に生まれたことも、そして両親の間から私が育っていることも、その先祖の遺伝子も自分が持っていることも。改めて考えてみると命を次の世代に送りながら私たちは精一杯に生きているのではないかと思います。


その時にいろんなことを変えていく力行動力思考力包容力などそういったものでここを使いながらどれだけいろんなものを見てどれだけいろんなものを聞きどれだけいろんなものを考えるかを試されているのかもしれません。


私はその中にあるものは政治と学びと言うことだと思いました。。それから遊びです。。。。

遊びと言うものは誰にも必要なものであり、それがなければ生きることが苦しくなるほど大変なものです。


笑顔で居続ける必要はありませんが、笑顔のままでいきてくようなヒントがたくさんあることを僕たちは忘れているのではないかと思いました



綺麗事に聞こえるとは思いますが、そういう風にものを捉えると少し生き方が楽かなと思いました。


いろんなことについてはいろんな人がいろんなことをおっしゃっております。それはそれとして自分の考えは自分の考えとして、接触しながら学んでいくようなことについて、否定的にはならず肯定的にものを見る眺めると言うことを今必要とされているのかもしれません。

終わり