留守宅には、この1年間に届いた郵便物が

段ボール(中)1箱📦分

DM、クレジットカードの利用明細書に年賀状等々

(留守宅の公共料金や固定資産税は日本の銀行口座から自動引き落としになっている)


その大量の郵便物の中にあった一枚の喪中はがき

友人が亡くなったことを知る


彼女と私は誕生日が同じ

1951年11月5日生まれ


18歳で上京した私

会社が一棟借り上げた宿舎(女子寮)で始めた新生活


彼女はお隣さんであった

4畳半の部屋に二人が住み

トイレは共同、お風呂は銭湯♨️

今の若い人達には想像すら出来ないでしょうね

1970年、そんな時代でした


ある日、持病から来る高熱と激痛

痛み止めを貪り飲み、気を失ったかように眠り

続ける私

周りの人達は土気色の私の顔を見て

『このまゝ死ぬんじゃないか』と心配したらしい


ようやく目覚め少し落ち着いた頃、彼女は

〈缶詰のみつ豆〉を運んで来てくれた


未だ食べられる状態ではなかったが、缶詰の

あの甘い汁の美味しかったこと!!

少しはにかんだような彼女の笑顔と共に私の

大切な想い出


それから20年近く経った頃

私が勤めるオフィスの窓口に彼女は尋ねて来た

事前に何の連絡も無く

ふと顔を上げたら、彼女が佇んでいた

窓口の社員に声を掛けることも無く、私が気付くのをただ静かに微笑みを浮かべ待っていた


『旦那さんのボーナスが出たから』と

わざわざ埼玉県から世田谷まで貯金をしに来てくれたと言う


その頃、彼女は結婚して仕事は辞めていた


毎月毎月、ノルマに追われ疲労困ぱいしていた私を案じてくれたのだろう

彼女には何も愚痴を言ってなかったのにもかかわらず

察していたのだろうか?


じっくり話すこともできず、彼女は用事が済んだらサッと帰って行った

私の心に暖かな贈り物を残して…


それから、数年後

彼女がくも膜下出血で倒れたと聞いた

まだ40歳になった頃だったか…

お子さんは2人


落ち着いた頃、友人達に声を掛けて

リハビリ病院に入院している彼女を見舞った

そこには、髪は真っ白になりすっかり変わった

彼女がいた

私達のことが判るのか判らないのか?

ただ、彼女の澄んだ瞳と穏やかな笑顔は変わらなかった


それが存命中の彼女に会った最後

あれから数年に一度、思い出したように彼女に便りを出した

私のことを覚えているのか?便りの内容が判るのか?

知るよしもないまま…

彼女の旦那様からも時折り年賀状が届いた

『A子は頑張っています』と、書かれていたことも

倒れてから30年間、必死にリハビリを頑張っていたのだろうか?


今の私に残っているのは、
18歳の頃の微笑みを浮かべた彼女の姿


月命日の今日、ご自宅にお花を送った


本来なら、墓前にて声を掛けたいのだが

現在の彼女のご家族の様子が分からなく

迷惑を掛けたくないので…


ただ手を合わせ

『お疲れさまでした』

『安らかにお休み下さい』と

雨の空に向かって祈る。。。