こんにちは!
髪とお肌のツヤ、内面から10歳若返りを目指すビューティーサロン タカラの
藤基恵子(ふじもとけいこ)です。
2月11日はビューティーサロン タカラの56回目の誕生月です。
それをきっかけに生い立ちを書いています。
ビューティーサロンタカラを母が創設した時、小学生だった私が、いつの間にか還暦も過ぎ、
その真ん中も過ぎ……(笑)
これまでの自分を振り返るには少し遅いかもしれないけど書いてみようかと思いました。
生い立ちの記①はこちらです。
父は長男の甚六というのか
大切に大切に育てられ、
良いように言うと純粋というのか……
人の言う事を直ぐに信じて、一緒に仕事をしていた人の保証人になり印鑑を押した。
細かい事は聞いていないけど、多額の借金を肩代わりしたと聞きました。
今ならきっと「離婚」だと思うのですが、父と母は何年もかかって返済しました。
道に落ちている大根の葉っぱも拾いたかった時もあったと言ってました。
(拾わなかったのかなぁ……)
保険を解約したりして何とか生活し、
そこに住めなくなったのか、
転々としていたのです。
私は小学校の間、5回転校しました。
6年間に5回ですよ。
2~3ヶ月しか在籍してなかった時もあったようです。
母は、職員室へ行き、「転校します」と話すのが辛くて辛くて仕方なくて、
涙がこぼれたと話していました。
私のこと不憫だと思ったようですが、当の私は何とも思っていませんでした。
転校生は珍しがられて、いつも周りには友達が集まってくれていたからでしょうか、寂しくありませんでした。
嵯峨小学校の次は伊勢田という所へ経っ越しました。
この頃の事はほとんど覚えていません。
雪が積もっていたのは確かですが、、よほど短い期間しか居なかったと思います。
母は、自分の弟の家で間借りをして、美容室を営んでいました。
この時、4校目の小学校へ転校しました。
この頃流行っていた歌謡曲は、
美空ひばりさんの「柔」でした。
やはり気を使うのか、
せめて寝泊まりする家だけでもと、
長屋に引っ越しをしたのが私が3年生の頃。
また転校でした。
5校目です。
そこから間借りしている美容室まで、
毎朝、父が母を車で送り迎いしていました。
昼間は留守になるからか、おじいちゃん、おばあちゃんも一緒に暮らしはじめました。
その頃、朝ドラで、「おはなはん」が放映されていました。
おばあちゃんの漬けた、お漬物とお味噌汁がものすごく美味しかったのを思い出します。
お味噌汁には、出汁に使う片口鰯は、上げずに、そのまま具として入っていました。
おじいちゃんにシモヤケを揉んでもらいながら眠りに就いていたなぁ~。
「一番好きなのは、誰?」と聞かれたら「おじいちゃん!」って、答えてました。
(父と母はどんな気持ちやったやろ)
母は、弟の家を間借りしていたのも、
気疲れで、しんどくなり、
どこかで自分のお店を持とうと思って替わったのが、今のお店。
はじめから美容室の造りで、鏡もセット椅子も揃っていて、直ぐに営業できる状態のお店。
家賃は高かったはずです。
お店の2階が住み家で、それまで家族バラバラで住んでいたのが久々に家族水入らず4人で住みました。
狭いので、おじいちゃん、おばあちゃんは、近くにもう一軒借りて住むことになりました。
二重所帯で家計は大変だったと思います。
私は、その時、小学校5年生の終わり頃でした。
あと2ヶ月で6年生、もう、転校させるのはかわいそうと思ったみたいで、越境通学をしていました。
7時20分に家を出てバスで通っていました。まだまだ大変な時に、交通費も節約したかっただろうに、その時の両親の気持ちは、いかばかりだったのか……。
* 6年生の頃、ザ・タイガースの「青い鳥」が流行ってました。
(シーサイドバウンドは知りませんでした)
小学校を卒業して、この地域の中学に入学しても知らない人達ばかりでしたが、やっぱり友達に苦労はしなかったです。
こんな時は深刻にならずにボーッとした性格が良かったのかもしれません(笑)
その頃、ものすごく流行っていた歌が、はしだのりひことシューベルツの「風」という曲です。
中山千夏の「あなたの心に」もその頃に流行ってたような
岡林信康の「友よ」も強く印象に残っています。
この「生い立ちの記」を書くにあたって、久しぶりにジュリー以外の歌を聴いて懐かしく思いました。
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