【回顧録】
Aさんの家に訪問するようになって、もうすぐ1年が経つ。相変わらず、音質の良くないラジオを点けているけれど、以前と違うことは、ラジオから演歌が流れても、Aさんは歌わなくなった。いつも夢うつつで聴いている…もしかしたら聴いていないのかもしれない。
Aさんのケアマネジャーは「週1回でもデイサービスに行って、人と交流した方が良い。」とAさんの家族に話していて、家族も賛同しているらしいけど、肝心の本人が全く乗り気でないらしい。
最近は、愛犬のポチ(2回目の訪問で、Aさんから名前を教えてもらった)も、Aさんの隣で寝てばかりいる。たまに、Aさんが「ポチ、遊ぼうか」と話しかけても、ポチは、ちょっと眼を開けてAさんを見るだけで動こうとしない。そんなポチを見て、Aさんは「ハァ〜」と深いため息をつき、自分もウトウトとしてしまう。
「確かに、楽しみがない生活かもな…。」と私は心のなかで呟き、Aさんをそっと見つめた。
私は、Aさんの昼食を作るためにキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、茹で済みのうどんと何種類かの野菜が目に入った。「焼きうどん」が思い浮かんだので、私はそれらの材料を冷蔵庫から出し調理にかかった。うどんは食べやすい長さにカット、野菜は噛みやすい硬さに、味付けは少々薄味に…Aさんは満足するかしら?
出来上がった焼きうどんと温かい麦茶をテーブルに並べていると、Aさんが目を覚まし、すぐに焼きうどんを食べ始めた。Aさんは黙々と食べている。ひと言も話さない。
食べている途中で話しかけて誤嚥したら大変なので、Aさんが箸を止めた時を狙って、Aさんに質問をしてみた。
「Aさん、どうしてデイサービスに行かないの?家にいてもつまらないでしょう?」と。
Aさんは微笑みながら、こう答えた。
「あのね、この歳になるとね、
生きることで精一杯なんだよ。」
「生きることで精一杯」なんだ…。私はこの言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。「老いる」という事実を知った気がした。
Aさんは、驚きの表情を隠せない私に向かって
「今は食べることが楽しみなんだ!」と笑顔で言い、再び、焼きうどんを食べ始めた。
「そうか、食べる楽しみがあるんだね!」
Aさんが食べ終わったことを確認して、私はAさんの家を出た。頭にポツと雨粒が落ちてきた。「…また雨か…」と一瞬嫌な気持ちになったが、「老いる」という事実を知った感動で、すぐに嫌な気持ちは消えていった。
【まとめ】
高齢になると、思うように身体が動かなくなるので、今までできていた趣味や外出ができなくなり、第三者からすると「つまらない生活」を送っているように見えますが、本人たちは「それどころではない、生きることで精一杯」なんですね。
一日ベッドで横になっている方でも、頭の中で昔の楽しかったことを思い出したりして楽しんでいるそうです。このような心理的状況を【老人的超越】というそうです。
【完】