参考にした、戦後の主な鉄道事故
によると乗客窒息事故とありますので、窒息により亡くなった方々も多いと思われます。
死者数、ここには49名とありますが、53名という記録もあります。
事故原因は、
1.乗員間の連絡体制が欠如したまま、列車を退行させた事、
が主原因と推定されます。
ほかに副次的要因として、
2.貨車の方には車内放送がないので、乗客が事態を把握できなかった。
3.多くの乗客が待避所もなく狭いトンネル内の線路を歩かざるを得なかった。
3.蒸気機関車の牽引能力を超えて多くの旅客が乗車していた。
4.粗悪な石炭のため、十分な動力が得られなかった。
5.後ろにいた機関車乗員も排煙で事態を把握出来ず、適切な旅客の誘導が出来なかった。
6.当時のトンネル内は照明設備がなかった。
などが挙げられます。
復員軍人本人達は戦場を生き延びたにも関わらず、故郷に向かう途中での事故で亡くなり、遺族ともに無念であろうと思います。
御冥福を祈るばかりです。
(参考にさせていただきました)
1963年、今はえびの市の現場付近には慰霊碑が建てられ、毎年この日に慰霊祭が催されているとの事です。
当時は現在とは比べものにならない安全対策、運航体制でありますが、人的要因もかなり大きいと言えます。
読んではいませんが、「知林ヶ島物語」(柳瀬良行)にも事故についての記述が出てくるとの情報があります。
この事故の 2日後、8月24日には八高線の拝島駅と小宮駅の間にかかる多摩川鉄橋の上で列車同士が正面衝突する事故が起き、乗客が下の川に転落するなどして、少なくとも105名がなくなる事故が起きています。
更には
9月6日中央線笹子駅構内脱線転覆事故、死者60名。
11月18日神戸有馬電気鉄道長田駅付近での電車脱線転覆事故 死者 48名
11月27日 津山線建部駅 - 金川駅間での列車脱線事故 死者 5名とつづき、
更に翌1946年から1949年には 戦後最悪の死者数を出した、八高線列車脱線転覆高麗橋事故を含んで多くの事故が起きました。
終戦直後の混乱期とはいえ事故が頻発しています。
逆に言えば、これらの事故によりその後安全対策が見直されたわけで、1950年代から1960年代にかけて急速に事故が減っていく傾向が現れています。
しかし、事故はかなり少なくなってはいるものの、近年でさえ決してゼロではない。
この事に常に注目して、潜んでいる不安全要素はないかと運航関係者はアンテナを張り、日々の安全対策を考えなければならないと思います。