少し前の話しだが、2月25日の深夜、広島県東広島市を走っていた大阪発鹿児島行きの高速バスが高速道路の路肩に乗り上げるという事故があった。
既に報道でご存知の方がほとんどだと思うのだが、これは交通事故ではなく鹿児島大学の3年生が、自殺したいと考えて高速走行中のバスのハンドルを無理やり奪い取り、意図的に横転させるという恐怖の事件であった。
現在捜査中で、真実が何なのかの公式発表にはもう少し時間がかかるのだろうが、逮捕された鹿児島大生は
「就職活動に悩んでいた。
自殺したかった。」
と供述しているのを始め、バスの運転手に対して
「降ろしてほしい。
殺してくれ、俺は殺される。」
などと叫んでドアをけったという話であり、無理心中に近い状況でこの事件を起こしたようである。
「就職活動に悩んでいた。
自殺したかった。」
と供述しているのを始め、バスの運転手に対して
「降ろしてほしい。
殺してくれ、俺は殺される。」
などと叫んでドアをけったという話であり、無理心中に近い状況でこの事件を起こしたようである。

昔は交通戦争などといわれ、1万人を超す交通事故の犠牲者が出たこともあったのだが、最近ではストレス社会というのもあって、死者数を減らす交通事故に取って代わって自殺者の数の方が多くなったという話も、出始めたのは随分昔の話である。
自殺者を増やす現代社会の構造に問題があることは否定しないのだが、自殺を考える人に対して然るべき死に場所を提供するのが社会の役割のような気がする。
刑法202条に
人に自殺を促せたり自殺を手助けしたり、頼まれたり死ぬ事を承諾したりして人を殺してはいけない。
という条文(判りやすくするために文章を修正)があり、これに違反すれば、六月以上七年以下の懲役又は禁錮となる。
人に自殺を促せたり自殺を手助けしたり、頼まれたり死ぬ事を承諾したりして人を殺してはいけない。
という条文(判りやすくするために文章を修正)があり、これに違反すれば、六月以上七年以下の懲役又は禁錮となる。
人が死ぬことを可能な限り防ごうという姿勢には反対はないものの、死にたいものが死のうとする行為により、死にたくない人まで巻き込むことは絶対に許されない行為だとも思う。
死を考えた人が相談する機関を設け、気がすむまで相談しても尚且つ死をチョイスしようとする人に対しては、安らかに希望をかなえる施設があったほうがいいと思うのだがいかがなものだろうか。
・・・おの・・・