帰国子女を辞書で引かなかったら、外国から帰ってきた女性のような雰囲気を覚える単語であるが、辞書で引くと
 帰国子女(きこく しじょ)= 親の仕事の都合などにより長年海外で過ごして帰国した子供。
と説明されている。

単語自体作られたのは古く、解説された文章は最近のものだと思われるが単語の「子」は男の子を意味し「女」は女性を表しているようで、解説の子供は現代の単語である男女を問わない子供を表している。

長年がどれだけのスパンを指して言っているのか判らないが、親の仕事の都合で外国で生活して帰ってきた子供の事を表しているらしい。

先日
 鶴橋商店街
の記事で少し触れたが、私は韓国で1年少々生活したことがある。
そのことについて長くなるのでシリーズで紹介することにして、今回はその第1作目である。


昭和52年(1977年)の1月、私は生まれて初めて韓国のソウルで生活することとなった。
中学校2年の3学期であった。
今よりもはるかに反日感情が強い雰囲気があり、韓国で暮らすと話をした大人が皆
「大丈夫か。」
と心配してくれたのが印象的だった。

良く歴史も知らなかったし、冬休みに遊びに行って何一つ悪い印象はない国と感じていた。

いよいよ韓国入りとなった。
ソウルの空港に降りたって見る外国は、当時の私の目から見てほとんどのものが新鮮に感じた。
まず、私の故郷高知と比べて抜群に寒いという印象があった。
今にして思うと暖房用のボイラーの関係で道のあちこちから湯気が上がっており、見たことの無い湯気の街の風景にそれだけで日本ではないような感覚を覚えた。
イメージ 1

今でこそ仁川に大きな空港が出来ているようだが、当時は金浦(きんぽ)空港という比較的小さな空港が国際空港であった。
空港に付いた後、タクシーに乗ろうとしたが韓国は自動車が右側通行で、私は助手席に乗りたくて左側に回ったがそこにはハンドルが付いており右側に回る事になった。

外国で暮らすのだからまず言葉の問題がありそうなのだが、戦後30年しか経っておらず年配の韓国の人はほとんど日本語を話せたようで年配の人を見つけられさえすれば生活上困った事は無かった。

私の通う日本人学校は、当時雑居ビルみたいなところにあり1階はケーキ屋さんがあり2階と3階が教室だったような気がする。
私の同級生は全部で6人しかおらず、日本でいう過疎の学校のようであったが少人数であった分普通の学校にない独特の距離感の授業であった。

同級生は某放送局・某宗教関係者・某銀行・某電話関連会社・某官公庁の職員の子供たちで関東出身者が多く関西は少ないうえに高知出身者なんて学校の生徒の中で私たち家族だけだったような気がする。

韓国の冬は寒い。

ベランダに水の入った瓶なんか置いておくと凍るし、結露が窓の下に垂れた後で凍るので、朝窓が開かない事もしばしばであった。
当時石油ストーブが一般的であった高知の暖房と比べて、スチーム暖房である。

住まいはソウル市内の南山(なむさん)という見晴らしのいいところにあった外人アパートで、日本人以外にアメリカ人やドイツ人など様々な外国人で賑わっていたが、5年か10年前に取り壊されて今はもう無いようだ。

15階建てくらいのマンションで、10階に住んでいたのを今でもはっきり覚えている。

長くなるので、ボチボチアップして行きたいと思うので今日はこの辺で!


※このシリーズの写真はほとんどが借り物の写真となる予定である。


 ・・・おの・・・