

チャンネルを変えても映し出される映像は、角度こそ違うが同じ建物を捉えている。
日本中を震かんさせ人質事件の国内最長記録となった浅間山荘事件が発生したのだった。
この事件は、全国で爆弾テロなどを繰り返してきた連合赤軍の5人が、軽井沢の浅間山荘に管理人の妻を人質にして立てこもったというもの。
極限の寒さのなか、にらみ合いは果てしなく続き、10日目の28日午前10時に警察本部は強行突入を実施し、負傷者27人、殉職者2人、民間犠牲者1人を出して事件は終息に至った。
同事件の現場指揮を執ったのが当時の 後藤田警察庁長官 の絶大な信頼を得ていた、
佐々淳行(さっさ・あつゆき)
である。
彼は警察庁警備局付警務局監査官として、東大安田講堂事件でも現場指揮を担当しており、1988年に天皇大喪の礼警備を最後に退官し、以降は文筆、講演、テレビ出演など幅広く活躍し、「危機管理」という言葉の生みの親としても知られる。
簡単なプロフィールは
1954年(昭和29年)3月 東大法学部卒業
1954年(昭和29年)4月 国家地方警察本部(現警察庁)入庁
1954年~1965年
警視庁、警察大学校(助教授)、大分県警、埼玉県警、大阪府警、警察庁等に赴任
1965年(昭和40年)2月 在香港日本国総領事館領事
1968年~1975年 警視庁・警察庁
警察庁・警視庁の調査・外事・警備課長、 監察官などを歴任
1975年(昭和50年)8月 三重県警察本部長
1977年(昭和52年)2月 警察庁刑事局参事官
1977年~1986年 防衛庁出向
防衛審議官、教育参事官、人事教育局長、官房長、防衛施設庁長官を歴任
1986年(昭和61年) 内閣総理大臣官房・内閣安全保障室長
1989年(平成元年) 昭和天皇大喪の礼を最後に退官
一方の極左と呼ばれた集団は、昭和30年代ころからベトナム反戦などを契機に日本各地で学生運動が自然発生的に起き、その中で指導的な役割を果たしたのは共産党系の学生運動団体「民青」であったが、その「民青」の活動を生ぬるいと考えた過激な活動家たちは、そこを飛び出して「新左翼」と呼ばれる一連の組織を作りあげた。
それらは活動を通じて路線や活動方針の対立から更に細かく分かれていき、彼らの中でも比較的穏和者は反帝学評(革労協)・第四インターなどのセクトにまとまっていったものの、より過激な路線を進む者は中革・革マルなどを組織し、やがて最高に過激なセクト、連合赤軍を産むこととなる。
彼らは「過激派」と呼ばれ、対立セクトにヤクザまがいの襲撃を行い、これは「内ゲバ」と呼ばれた。
本来なら体制打倒に使われるはずの彼らのゲバルト(暴力)が一般から見れば内側の学生運動組織同士に対して用いられたからである。
連合赤軍に至っては、その暴力は他のセクトのみならず、自分達の仲間同士にまで向けられる事となり浅間山荘事件の後、彼らのアジトからは激しいリンチを仲間から受けて死亡した赤軍メンバーの多数の遺体が発見されている。
この浅間山荘事件により日本の左翼系学生運動は国民の支持を受けられなくなった事から、この過激な学生運動は、日本の社会主義運動自体を衰退の道へ向かわせる事となっていった。
昭和40年代、日本が高度成長をひた走っている頃、軽井沢の南に人口50人の山村があった。
住民達は「都会のサラリーマンの憩いの場にしたい」と、裏山を別荘地に造成した。
昭和47年2月、この平和な別荘地に保養所の管理人を人質にとり、連合赤軍のメンバー5人が立てこもるという悲劇が突然襲った。
犯人はおびただしい数の銃弾や爆弾を持っており、断崖絶壁に立つ「あさま山荘」は難攻不落の要塞となり、警察との睨み合いは1週間を超えた。
極限の状況で犯人に対峙する警察は付近住民から大きな支持を受け、村の女達が作った温かい握り飯は氷点下20度の寒さから警官隊を守り、事件解決に大きく貢献した鉄球クレーンの操作を駆って出たのは、重機オペレーターの民間人兄弟だった。
事件発生から10日目、「これだけ多くの支援を受けた作戦が成功しないわけがない」指揮官は決断し、高圧放水を伴った鉄球作戦は見事成功し警官隊は一斉に突入を開始した。
しかし、犯人たちの激しく抵抗の前で2名の警察官が殉職し負傷者が続出した上に、絶大な効果を発揮した鉄球クレーンが急に動かなくなり、更に長時間に渡る突入作戦により、犯人の銃撃を押さえ込む高圧放水用の水も尽きてしまった。
作戦中止かと思われた窮地を救ったのは、隣の群馬から駆けつけた消防署員だった。
最新鋭の消防車が400mの谷底から水をくみ上げ、再び「高圧放水」が可能となった。
そして、自ら志願した決死の突入部隊が、銃弾をかいくぐり人質を無事救出、犯人を逮捕することとなった。
最終日の大まかな流れは
10時00分 作戦開始命令
10時54分 大鉄球作戦開始
クレーン車のアームから鋼鉄性のワイヤーで吊り下げられた鉄球を建物にぶつけて破壊していった。 同時に行った放水の威力もすばらしく作業は順調に進んだが・・・
11時27分 高見繁光警部(特科車輛隊)撃たれ殉職
11時56分 内田尚孝(第二機動隊長)撃たれ殉職
クレーン車がエンスト。
12時38分 拳銃使用許可
13時37分 緊急指揮幕僚会議
特別決死隊編成(警視庁2名、長野県警2名)など
14時50分 鉄パイプ爆弾投下(警察官5名重軽傷)
17時37分 決死隊4名突入、数メートルの至近距離で犯人と対峙。
この前後約20分余り最後の高圧放水により突破口を広げる作業が続けられる。
18時05分 隊長(機動隊長)一斉突入命令
18時14分 犯人逮捕、人質無事救出
で事件は解決し、記憶にある莫大な数の機動隊員の中を犯人が次々と引き出される映像につながっていく。
解決に10日間もかかった事は大人になって知ったが、確かに数日間浅間山荘の映像を見つづけた記憶がある。
犯人の母親がスピーカーで説得するも、帰ってきたのは銃声だけだったというシーンも生で見てきいたような気がする。
武器を持ち人質を抱える犯人に対して、警察に武器の使用が許可されたのは突入の直前であり、犯人を殺してしまう事により国民の同情を買い、左翼を支持されてしまう事にたいする国の危機感などもあって相当不利な状況の中、犯人を殺さず、人質を無事救出するという長官の命令を忠実に実行したのが冒頭に申し上げた、佐々淳行(さっさ・あつゆき)である。
退官してから余りにも有名になったので、あの事件が解決したのは、この人だけの手柄ではないとの批判も多いが、左傾化する日本に歯止めをかける為に不可欠の1人であったことは間違いない。
逮捕された5人の犯人とは、
坂口 弘 (当時25歳、京浜安保共闘、東京都浅草出身)
坂東国男 (当時25歳、赤軍派、滋賀県大津市出身)
吉野雅邦 (当時23歳、京浜安保共闘、広島県広島市出身)
加藤倫教 (当時19歳、京浜[中京]安保共闘、愛知県刈谷市出身)
加藤元久 (当時16歳、京浜[中京]安保共闘、愛知県刈谷市出身)
彼らのとった手段は批判されようが、激動の時代に自分たちの信念を貫き、日本を自分たちの信じる方向へ向かせようと、こんな若い人間が命がけでとった行動を、何の信念も持たず生きている私が簡単に批判することは出来ない。
HOME http://www.geocities.jp/ginbaeyokohama/