「シンザンを超えろ」というJRAのキャッチッフレ-ズとともに、シンザンのモノクロ写真のポスターが競馬場や場外馬券売り場に並んだ。


シンザンが三冠を達成して19年が経っていた。


共同通信杯と弥生賞を連勝したミスターシービー(父トウショウボーイ)が皐月賞も1番人気に応えて優勝した。ダービーでは単勝1.9倍の圧倒的な人気になったが、人気=信頼ではなかった。


当時、人気の高い馬のほとんどが好位差しのパターンだったが、ミスターシービーは最後方からの追い込みという独特のスタイルだった。それは騎手の吉永正人のパターンであり、「白い稲妻」と称されたシービークロス(父トピオ)で成功したパターンだった。


ダービーでもミスターシービーは出遅れ、最後方からのレースとなった。わたしはテレビを見ながら「落ち着け、落ち着け」とつぶやいていたが、それは吉永やシービーに対してではなく、自分自身に対してだった。


ミスターシービーはダービーを勝ち、菊花賞も勝って19年ぶりに三冠馬が誕生した。父内国産馬から三冠馬が誕生したことが日本の競馬の歴史や生産者の意識を変えた。現在では圧倒的な主流となった父内国産の時代

はこの年から始まったと言ってよい。しかし、ミスターシービーの栄光は今も続く。父内国産の三冠馬はミスターシービーが最初で、その後は出ていない。


1983年のダービーは第50回の記念すべきレースで、この年にスタートした2つのことがミスターシービーのダービーに華を添えた。


1つは「ターフビジョン」の登場だ。ミスターシービーが最後方から徐々に前に上がって行く時、場内から大きなどよめきと歓声が上がった。それがタ-フビジョン効果だった。


もう1つは「優駿」誌上で始まった「優駿エッセイ賞」だ。第1回の受賞者は吉永正人の細君の吉永みち子で、ペンネームで応募していた。エッセイには厩舎も騎手も馬も無名で登場するが、それが松山康厩舎と吉永正人とミスターシービーであるだったことはすぐにわかった。その馬が19年ぶりの三冠馬という快挙を達成した。


実はこの年に始まった重要なものがもう1つある。


雑誌「優駿」ではこの年から「ダービー馬を探せ」という企画がスタートしていた。吉川良という作家が生産牧場や厩舎、競馬場などを回り、1983年のダービー馬を探すという企画だ。現在で言う「POG企画」の端緒だ。


この企画は三冠馬の誕生と言う大団円で終了するが、今でも記憶に残っている言葉と場面がある。吉川が牧場に行って「クラシックの取材です」と言うと、牧場の人の顔がガラッと変わるという場面だ。


北海道の牧場の春は遅いが、「クラシック」という言葉は牧場に春を告げる魔法の言葉だ、と吉川は言った。


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19年ぶりに三冠馬が誕生した翌年の1984年にも三冠馬が誕生した。しかも、史上初めての無敗の三冠馬の誕生だった。


シンボリ牧場が生産したシンボリルドルフ(父パーソロン)には、前年に三冠馬となったミスターシービーにはない気品と凄みがあった。オーナーブリーダーでしかできないサラブレッドの理想の姿があった。


シンボリルドルフには「放牧」という時間がなかった。レースが終わると千葉のシンボリ牧場に帰り、そこで厩舎以上の調教が続いた。レースの直前に厩舎に戻り、レースに出走してまた牧場に帰った。現在では通例となっている外厩制度の端緒だった。


当時の「社台」は先代の吉田善哉の時代で、善哉は自分たちを「馬喰(ばくろう)」と呼んでいた。「馬喰」とは馬の売買人のことで、「社台」と言えども「オーナーブリーダー」などとシャレた言葉は使えない時代だった。


ついでに言えば、「馬喰」だからこそ「一口馬主制度」をつくることができた。当時は「共同馬主」という制度だったが、「馬主」を「うまぬし」と読めない人も自分のことを「馬主」と呼び、一口の代金を「出資」と呼ぶ時代が到来した。ハイセイコーの時代に始まった競馬の大衆化は「一口馬主」や「POG」という形に変化し、日本独自のスタイルになった。その主役であり仕掛け人は「社台」であることは言うまでもない。



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1985年のダービーもシンボリ牧場のシリウスシンボリ(父モガミ)が連覇した。父のモガミは仏米でリーディングサイヤーとなったリファールの直仔で、シンボリ牧場の和田共弘とメジロ牧場の北野豊吉が共同所有し、野平祐二が騎乗してフランスで競走生活を送った。


1986年のダービーは社台ファーム生産のダイナガリバー(父ノーザンテースト)が制した。社台ファームにとっては初めてのダービー馬で、自分を「馬喰」と呼んだ吉田善哉の執念の結実だった。


吉田善哉は知っていた。強い馬をつくる方法はひとつしかない。それはたくさんの馬をつくることだ。その中に時々強い馬が出現する。それがいつか、それがどの馬かは誰もわからない。



1991年のダービーはシンボリルドルフ産駒のトウカイテイオーが制した。親子二代の無敗での優勝で、故障のために三冠はならなかったが、ルドルフの貴重な血脈を現在も後世に伝えている。



1994年には史上5頭目となる三冠馬のナリタブライアン(父ブライアンズタイム)が出現した。2歳の8月にデビューし、秋までは5戦2勝という平凡な成績だったが、2歳の暮れからダービーまで6連勝し、菊花賞も制してスターダムに上り詰めた。その年の有馬記念も制し、日本最強馬となったが、4歳以降は7戦2勝と低迷し、GⅠレースは未勝利に終わった。


ナリタブライアンが1200mの高松宮杯に出走してきた時の驚きは今も忘れない。GⅠをもう一度勝たせたいという馬主や調教師の思いはよくわかるが、三冠馬には出てほしくないレースだった。結局、4着に敗れて引退するが、ナリタブライアンという馬の生涯の汚点となったのはまちがいない。


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1995年のダービーはサンデーサイレンスの初年度産駒であるタヤスツヨシが制した。空前絶後となるサンデーサイレンス時代の到来で、その後、1998年のスペシャルウィーク、1999年のアドマイヤベガ、2000年のアグネスフライト、2003年のネオユニヴァース(二冠)、2005年のディープインパクト(三冠)と6頭のダービー馬を輩出した。


2005年にはサンデーサイレンス産駒のアグネスタキオンを父にもつディープスカイが、翌2006年にはネオユニヴァース産駒のロジユニヴァースがダービーを制し、サンデーサイレンス系と呼ばれる一大血脈を築きつつある。


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今年のダービーにも数多くのサンデーサイレンス系の馬たちが出走する。フルゲートの18頭のうち、15~16頭という圧倒的な勢力になりそうだ。


その1番手は皐月賞を3馬身差で制したオルフェーブル(父ステイゴールド)だが、皐月賞・ダービーとも東京で開催され、皐月賞を5馬身差で制したトウショウボーイもダービーでは2着に敗れた。


混戦と呼ばれる年は人気通りに、順当と思われる年は荒れるというのが定番だ。今年はどちらの年だろう。


人気は競馬ファンがつくる。ダービーの1番人気はそれだけで名誉だ。


オペックホース(父リマンド)がダービーを制した1980年の1番人気はモンテプリンス(父シーホーク)だった。あるテレビ局がモンテプリンスを生産した杵臼斉藤牧場を訪れ、ダービー当日の牧場の人たちを放映した。モンテプリンスが2着に敗れた後、牧場のお母さんが何事もなかったように馬にエサを与えに行った。その後姿になぜか感動した。人生というものは退屈なものだ。その退屈に耐えることが人生だと教えられた瞬間だった。


今年のダービーはこれまでの歴史を変えるようなレースになるだろうか。それは1つしかないと思うが、それが実現した時、日本の競馬は新たな時代を迎えることになる。


(つづく)