1976年…。カナダのモントリオールでオリンピックが開催されたが、日本は石油ショックとドルショックのダブルパンチを受け、社会も経済も経験したことのない苦境を迎えていた。


その2年前には、石油ショックの影響で「計画停電」が実施された。街のネオンは8時には消え、テレビも12時にはすべてのチャンネルが終了した。


銭湯の値段は行く度に上がり、定食屋のメニューからは値段が消えた。書き換えるのが面倒なほど、値上りの連続だったからだ。


それまでの高度成長がうそだったように就職は厳しくなり、内定を取れない学生が続出した。そのむかし、「大学は出たけれど」という言葉が流行したが、その時代が再びやってきた。しかも急にやってきたのだ。


そんな年にわたしも大学を卒業して就職した。なるつもりのなかったサラリーマンになった。当時は就職しない学生の方がエリートだったが、それが一夜で逆転した。


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1976年のダービーは1頭の馬が話題も人気も独占していた。その年の1月にデビューし、4連勝して皐月賞を制したからだ。その名はトウショウボーイ。テスコボーイの最高傑作と言われ、後に「天馬」と称された。


厩務員ストライキの影響で、今年と同じように皐月賞は東京で開催され、トウショウボーイが5馬身差で圧勝した。同じコースで開催されるダービーでも死角はないと言われ、単勝は1倍台だった。それでも銀行に預けるよりはよいと考え、会社の従業員のボーナスでトウショウボーイの単勝を買った経営者も現れた。


万全と思われたトウショウボーイにも唯一の死角があった。騎手だった。トウショウボーイが所属する保田厩舎の池上昌弘(現調教師)が騎乗していたが、加賀武見騎乗のクライムカイザー(父ヴェンチア)に直線で出し抜けを食わされ、1馬身1/2差で敗れた。加賀の騎乗は現在ならば進路妨害の対象になったが、当時は騎手の技術と言われた。


その時の虚脱感をどう表現すればいいのだろう。トウショウボーイ=クライムカイザーの枠連の馬券をもっていたが、しばらくは換金する気にならなかった。当時の馬券は単複と枠連しかなかったのだ。


その後、トウショウボーイの産駒のミスターシービーが三冠馬となり、孫のウオッカが牝馬ながらダービーを制しても、1976年のダービーの悔しさを忘れることはできない。


わたしも当時の日本も、時代を超えるヒーローの出現を望んでいたからだ。


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翌1977年のダービーは尾形藤吉厩舎所属のラッキールーラ(父ステューペンダス)が制した。当時、500キロを超える馬はダービーでは勝てないと言われていたが、ラッキールーラは534キロで制した。


ラッキールーラは弥生賞を勝ち、皐月賞でも2着だったが、28頭立ての7枠24番と馬体重が嫌われ、9番人気だった。


ダービーの歴史はそれまでの定説やデータを覆した歴史でもある。ラッキールーラは外枠と馬体重という2つの定説を覆した。


わたしはラッキールーラの単勝を持っていた。しばらくは人に自慢するためにサイフに入れていたが、仕事で出張した際に紛失した。落としたのか、盗まれたのか、今でもわからない。


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1979年のダービーはカツラノハイセイコ(父ハイセイコー)が制した。テレビも新聞も父ハイセイコーの雪辱と騒いだが、世の中自体が変わってしまっていた。


テレビでは車と化粧品のコマーシャルが花盛りで、バブル時代の前兆を呈していた。地方から中央に転籍した馬とその仔をヒーローと呼ぶ時代ではなくなっていた。誰もがヒーローになれると思い込み始めた時代だった。


1981年のダービーはカツトップエース(父イエローゴッド)が制した。皐月賞との2冠だったが、皐月賞では17頭立ての16番人気だった。ダービーでは3番人気だったが、父がスプリンターで、皐月賞も1番枠での逃げ切りだったため、評論家は誰もが低い評価をしていた。それを覆しての勝利だったが、この頃からファンの評価と専門家の評価が分かれてきた。ファンが自分で考える時代に入ったのだ。


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1983年と1984年に2年続けて三冠馬が出現する。日本の競馬がもっとも輝いた時代と言えるだろう。


(つづく)