女性カメラマンのNさんは茫然自失といった顔をしている。
「勝った?」
Nさんが僕に訊いた。誰が見てもどこから見ても見事な勝利だったが、Nさんにはよくわからなかったらしい。ゴール前で目をつむってしまい、目を開けるとレースが終わっていた。
「勝ったよ、レーヴディソール」
と僕が言うと、Nさんが僕の首に抱きついてきた。泣いているのか笑っているのか分からないような声が聞える。
「泣いてるの? 笑ってるの?」
と僕が訊くと、両方、とNさんが応えた。まだ僕の首に抱きついたままだ。
「強かったなあ、いやあ、強い!」
と編集者のSさん。
「タキオンの血そのままのレースだったね」
とSさんが続けた。
「レーヴの一族にとっても悲願のGⅠ、タキオンにとっても今年初めてのGⅠだよね」
と僕がNさんの背中をさすりながら言った。
「ああ、死ぬかと思った。途中から息を止めていたから、ゴール前で目が見えなくなっちゃった」
とNさん。目にはうっすらと涙がある。
「昨日は前祝いをしたけど、今晩はみんなで本祝いをしよう」
と言って、ヤスさんが知り合いの店に電話をかけた。
「大丈夫だ、空いているってさ」
とヤスさん。新宿駅の中央東口からすぐのところらしい。
「千草という居酒屋で、料理も酒もおいしい。新宿で70年やっている老舗だよ」
とヤスさんが店じまいの準備をしながら言った。
今晩の「千草」は空いていた。入ってすぐに囲炉裏席があるが、今日は誰もいない。カウンター席に2~3人いるだけだ。
僕たちは1階の奥の座敷に席をつくってもらった。画家や劇団関係の客が多い店で、店の主人も現役の劇団員だ。
食べ物も飲み物もみんなヤスさんに任せたが、注文する前に「千草巻き」と野沢菜が出てきた。ヤスさんのお気に入りらしい。
「もう30年ぐらい経つかなあ、この店に来るようになってから」
とヤスさんが焼酎の一升瓶を持ってきた店の主人に言った。
「そのぐらいは経つね。最初は画家の池田さんといっしょだったね」
と主人が応えた。池田さんはヤスさんが高円寺で店を出していたころの客だそうだ。
「今日は彼女のお祝いなんだ」
とヤスさんがNさんを指差しながら言った。
「そう、それはよかったね。ゆっくりしていって」
と言って主人はNさんに笑顔を向け、そのまま座敷を出ていった。よけいなことを訊いたり言ったりしないのがこの店のいいところだ、とヤスさんが言った。
「まずは、乾杯をしよう」
と言って、ヤスさんがみんなのコップに焼酎とお湯を注いだ。
「今日は飲むからね。後はよろしく!」
と言って、Nさんが僕の膝に手を置いた。
「そうしな、そうしなよ。朝までちゃんと面倒をみてくれるってさ」
とヤスさんが僕の顔を見て笑いながら言った。
Nさんは今ごろになって実感が湧いてきたらしい。
「レーヴディソール、頑張ったね。まだ幼くて可愛い顔をしているのに、レースに行くと顔が変わるのよ」
とNさん。
「体つきは細く見えるけど、お尻は大きいのよ。そこだけはわたしに似てるの」
と言って、Nさんは僕の膝を叩きながら大きな声で笑った。
「お尻が大きいのはいいことさ。馬も人間の女性もね」
と言って、ヤスさんも大きな声で笑った。こんな顔をしているヤスさんを見るのも久しぶりだ。
「これで最優秀2歳牝馬に選ばれるのはまちがいないね。タキオンの仔としては初めてだよ」
とSさん。全勝での受賞となると2005年のテイエムプリキュア以来らしい。ウオッカもブエナビスタもアパパネも全勝ではなかった。
「親孝行な娘だね、レーヴディソールは。でもいちばん喜んでいるのは、天国にいる姉のレーヴダムールや兄のレーヴドリアンかもしれないね。これで競馬の歴史にずっと名が残るからね」
とエンジニアのTさん。確かにそうで、「レーヴ一族」の名は「バラ一族」や「スカーレット一族」のように日本の名血として永く大切にされることになるだろう。
「じゃあ、レーヴ一族に乾杯しよう。今日はレーヴダムールやレーヴドリアンにとっても記念すべき日だものね」
と僕が言うと、
「ザタイキの分もね。ねえ、ヤスさん」
とNさんが言った。
「そうだな。今日はいい日だ。今年いちばんだ!」
と言い、いつもの笑顔よりももっと目を細くしながらヤスさんが言った。
今日は、家には帰れそうにない。