何をどう言えば伝わるのか。

そもそも何を伝えれば良いのか。

その問いに判然とした答えも持たず、

でも思い立った時に記さねば

備忘録としての役目を果たせぬ。

 

そうだ、あの当時の自分に向けて、

言葉をかけてみよう。

思春期に入り道を見失い、

ハリセンボンのようになっていた

あの当時の自分に語り掛けよう。

 

鎖肛は病気ではないから、

治ることはないよ。

でもそれは克服できないという意味では

決してない。

君が抱いているのは、

先ずは、怖れだ。

そうだね、人に知られるのは

怖れを感じるね。

でもそれはいったい、

どういう怖れなのだろう。

まずは便失禁について。

それが実際に起きて実際に悟られると

とても恥ずかしく、

そのことについて怖れを抱くのは

当然のことだね。

でもそうならない手立てを講じることは

怖れることではないね。

トイレトレーニングを重ねること。

パッドを使うこと。

失禁の予感があれば

それを誘発する活動や場面から

離れること。

それらは、怖れることではないよ。

次に君が感じる怖れは、

便失禁を時々起こし得る

鎖肛を抱えている自分自身を

知られることだ。

世の中にはね、

優しい人間と、

配慮不足の人間と、

優しくない人間と、

敵対的な人間がいるよ。

そしてその割合はね、

大多数が優しい人間だ。

彼らに自分のことを知られるのは

怖れなくていい。

配慮不足の人はある程度いるけど

それは知らないだけだから、

堂々と、でも穏やかに、

配慮を要求していいのだよ。

優しくない人間は、

少しいるね。

でも彼らは融通が利かないだけで

悪意でそうしているわけではないんだ。

彼らには彼らの事情が、考えが、

やり方があるから、

それはそれで、尊重しなきゃね。

敵対的な人間も

残念ながらいるよ。

そのうちのほとんどは、

心理的な意味での弱者だ。

憐れみながら、距離を置くといい。

そして残念ながら正味で

君の鎖肛を嘲弄する敵対的な人間もいて、

その時は全身全霊で怒るといいよ。

魂から怒るといい。

君は君の尊厳を守る権利がある。

でもね、繰り返すけど、

君の身の回りはほとんどが優しい人だ。

そんなに警戒しなくていい。

そして鎖肛ゆえに困ることはあっても

鎖肛ゆえに不幸になることはないよ。

鎖肛を抱えながら、

心から笑い、心から喜び、

心から悲しみ、心から慈しむことが

必ずできる。

そのときに君のそばには

君を愛し、そして君が愛すべき、

素晴らしい人たちが必ずいるよ。

絶望の甘美に溺れていはいけない。

希望の苦闘に挫けてはいけない。

焼きたてのホットケーキにバターを溶かし

はちみつをかけたような甘美な絶望は

消費してしまったらもうおしまい。

君には何も残らない。

それに引き換え希望というのは

峻険な山を登るのに似て、

入念な装備を整え、

心身を鍛え、

先人に学び時に導きを受け、

一歩一歩、頂に向け進まねばならない。

苦しいかもしれないが、

いつか仲間と出会い、

いつか美しい山野草に出会い、

いつか壮大な景色に出会い、

喜怒哀楽の色彩さまざまに

活き活きと描かれた人生が

手に入るよ。

だから、安心するといい。

鎖肛を抱えながらも、

鎖肛から自由になれるのだよ。