目的

患者自身を含む社会の疾患に対する認識の整理を通し、疾患が惹起しうる不利益や不安感を構造的に理解し、その類別と対応策を検討するため。


【対象者:患者と直接的に接する人物】

◯疾患が惹起する不利益

◯疾患が惹起するネガティブな感情


2 対象者:患者と直接的に接する人物

(1) 疾患が惹起する不利益

(2) 疾患が惹起するネガティブな感情


(1) 疾患が惹起する不利益

① 身体的不利益:感染症の罹患、患者からの暴力、介護による腰痛・睡眠不足等の健康面の負担など

② 心理的不利益:感情労働としての負担、汚物・危険物処理の心理的負担、患者からの暴言、世間からの批判・中傷など

③ 社会的不利益:介護による離職・別離・孤立、娯楽・教育・就職などの機会逸失など

(2)疾患が惹起するネガティブな感情

① 加害不安:患者への暴力(アクティブなもの・パッシブなもの)の可能性など

② 被害不安:上記(1)を被る可能性に対する不安など


2-1 対応策

(1)について

場面が医療・介護諸機関なのか一般家庭なのかで対応が大きく変わる。諸機関ならば患者と医療・介護職者両方を保護する制度づくりが不可欠。一般家庭の場合には行政の福祉課や町内会の民生委員、縁者や友人、地域住民などが然るべき支援や各種機関への通報をする。

(2)について

社会・保健福祉士、各種カウンセリング、民生委員、縁者や友人などが相談若しくは支援にあたる。


【ここまで書いて思ったこと】

文字数でいくとあっさりした感じになったが、この領域がまさに諸課題が入り乱れる最前線だと再認識する。一番強く思ったのは、患者とその周囲の人はそれぞれ互いに対し、加害者にも被害者にもどちらにもなりうる非常に不安定で流動的なスペクトラムの内あるということ。目を背けたくなるが、ニュース等を見ても分かるように時にそういう出来事が起きている。


もっとも、それはあくまでも可能性の話であって必然じゃない。だけど誰かを蔑ろにする冷徹な狂気はいつもそこかしこにあって、今これを綴っている自分もいつだって加害側にも被害側にもなる可能性があるのだ。


もう一つ思ったのが、認知行動療法が普及してユング的だったりロジャース的だったりするものが時代遅れ扱いになっていることの、ある疑問というか、危機感みたいなものだ。認知行動療法の効果を疑うものでは全くないが、課題を限定的に切りとることで他の部分を捨象することにはならないのか、と疑問に思うのだ。またそうすることで課題の生じる場の全体性への視点やアプローチが欠けてしまわないか、という疑問が続いて湧いてくるのだ。場を支配する力動性という視点は、過ぎ去りし日の手法として捨ててしまってはならないように思うのだが、臨床の現場ではどうなっているのだろう?