中学時代の保健の授業の際、

教師が「医療の進歩のおかげで死んでいたはずの人間が

生きられるようになった」というようなことを言ったのを聞いて、

全体的なメッセージとしてはポジティブであることは

頭では理解できるのに、

「死んでいたはずの人間」という言い回しに

心が反応して涙が止まらなくなった。

クラスメートはポカンとしてどうした?と訊いてくるから

「目にゴミが」とか言って必死にごまかした。

 

腹部に大きな醜いスト―マ痕。

排便コントロールのできないこと。

大昔なら死んでいたはずの存在。

つまりは、欠陥品だ。

 

健常の人よりは障がいに対する理解が深い。

それが、自分に言い聞かせていた「障がいプライド」。

それが、自分で自分の存在を許せる「よすが」。

 

そういうものから解放されて身軽になったのは

実は結構最近なのだ。

 

NHKの「100分de名著」でスピノザ先生に出会ってからだ。

 

汎神論を唱えるスピノザ先生によれば、

世界のすべてが無限の存在である神の表れ。

そして解説の國分先生の話によれば、

片側に1本しか角の無い牛を見て「不完全」と思うのは、

2本の角がある牛を「完全」とみなす人間の見方にすぎない。

それが人の技ではなく自然の表れならば、

「神の表れ」という観点から見て1本角の牛は、

1本角の牛として「完全」なのだ。

 

そう、だから、鎖肛を持って生まれてきた自分も

これで「完全」な存在。

何よりこうしてちゃんと生きてるしね、人の技のおかげもあって。

障がいプライドを捨てるつもりはないけれど

今なら無くても平気。

なぜって、自然万物がすべからく「完全」なら、

「完全」だの「不完全」だのって、

もはや考える必要がない。

 

こう思えたのは、自分が50歳になる数年前だった。

少し時間がかかったが、ここまで来たよ。