今日は、中高生にでも、わかりやすく資本主義のシステムを説明してみたいなと思います。

ただし、露骨な表現は避けて、文字式で表わしてみたいと思います。


その前にまずはお金の生まれた起源を簡単に説明してみたいと思います。


その昔、魚を釣るのが仕事な人と、米を作るのが仕事な人と、野菜を作るのが仕事な人がいました。


魚を釣る人は自分で毎月食べる魚よりも余分に10匹魚を釣っていました。


米を作る人は自分で毎月食べる米よりも余分に1kgの米を作っていました。


野菜を作る人は自分で毎月食べる米よりも余分に6つ野菜を作っていました。


この3人はその余分な分はいらないので、それぞれで余分な分を交換することで、いろいろな品目を手に入れようと考えました。


各自のもっていたものの交換価値は以下の通りでした。


魚5匹=野菜3つ=米500g


こうして、それぞれが交換をすると、例えば米を作っている人は、自分で必要な米+魚5匹と野菜3つを手に入れられるというわけです。


そこへJ文式土器を作っている人と(以下Jさんとする)大工のDさんが現れました。


J文式土器があれば食糧が保存できます。


Dさんがいれば、家が建てられるし、何かあった時の修理も頼めます。


したがって、3人は彼らに仕事を頼むために、自分の作っているモノをあげるから仕事をして欲しいということを頼みました。


JさんもDさんも3人の作っているモノが必要だったため、快く仕事を引き受けました。


それからしばらくして・・・


魚を釣っている人は思いました。


「そんなに毎回毎回Dさんに大工仕事を頼む必要もなければ、野菜がいらない時期もある。


しかも、自分が取れる魚もたくさん余分がある時もあれば、交換できるほどの余裕がないこともある。


さらに魚はずっと持っていていも食べられなくなってしまうから、交換するのに不便な面もある。


何かいい方法ないかな・・・」


と。


そこへ、外国から賢者Sがやってきました。


Sは魚を釣っている人に言いました。


この紙を魚1匹分の価値として、使えるようにしたらいいよ。


他の人たちにも、同じようにそれぞれの持っているモノの価値に応じた紙きれを渡してあるから。


この紙は私のところへあなたの魚を持ってきてくれれば交換してあげます。


こうして突然やってきたSにより、それぞれどんどん仕事をして、欲しい時に欲しいものが手に入れられるようになりました。




これがお金の起源です。


つまり、それぞれの仕事の価値がプラスマイナス0になるように、価値を表すものとして登場したのがお金なのです。




ここで、現代の資本主義について考えてみましょう。


もし、上記の人々のように、それぞれが同じだけ仕事をして、それぞれの仕事の価値が平等に評価されているとすれば、貧富の差は基本的には生じません。


自分のした仕事の分だけお金がもらえるわけですから、お金の欲しいだけ働けばよいというわけです。


では、なぜ格差が生じるのでしょうか。


お金持ちとそうでない人が現れるのは、お金持ちの人がめっちゃがんばっているからその分お金を持っているのでしょうか。


実際はそうではありません。


その仕組みは経済学を勉強してくれればいいわけですが、簡単にその関係を式にすると・・・


a>b


となります。


抽象的すぎますが、aは売上、bは費用です。


例えば、100円で手に入れたものを200円で売れたら、100円の利益が出ますよね。


ただ、売るために50円払って買いたい人を紹介してもらったとすれば、実際の利益は100-50で50円ということになります。


つまり、費用が売上を上回っていたら利益になるわけです。


いろんな活動のその合計が儲けになるわけです。


しかし、これは経営者の話です。


では、サラリーマンの場合はどうでしょう。


サラリーマンの場合、売上は給料で、費用は自分の労働時間です。


給料は経営者に費用としてもらうものだから決まっています。


特に時給で給料をもらっている場合がそうです。


そして、ここに貧富の差が生じる理由があります。


その理由の1つはサラリーマンの場合、売上は固定ですが、費用がそれに見合っていなかった場合、つまり、売上よりも自分の労働がしんどいという場合、損しています。


要するに同じ時間で他のことをすればさらに稼げる機会を失っているわけです。


そしてその機会は雇い主のプラスになる。


だから貧富に差が生じるわけです。


今の日本人の8割くらいは将来そうなるように教育を受け、何も気づかず社会に出る場合がほとんどです。


(実はサラリーマンでも、自分の労働時間が全く苦になっていない場合は、プラスと言えるでしょう。ただ、自分の能力がそれ以上の価値を見いだせる場合はやはり損しています。)




これから社会に出ていく学生はどうしておけばよかったのか。


受験勉強だけアホみたいに頑張っていても、社会に出てスコられるだけです。


そうならないような検討を次回してみたいと思います。

僕は法学部なので、資格試験にとても興味があります。


というより、資格試験を受けます。


そして今日ふと思ったんです。


大学受験や高校受験も一種の資格試験だなと。。。


資格試験は、その人の「専門的知識・技術の証明」という役割を果たします。


司法試験や司法書士・行政書士の資格なら法律に関する専門知識。


公認会計士や税理士なら会計に関する専門知識。


何らかの資格の肩書がある人には何らかの専門能力があるわけです。


そして、学歴というのも同じような性質を持っていると考えたわけです。


では、学歴とは何の専門能力の証なのでしょうか??


ただし、これは大学受験に合格するまでの話です。


つまり、大学受験そのものの専門性は何か、というわけです。


僕は、これを「目標設定と目標達成」の能力だと思っています。


大学に入った後得たい専門知識や能力はまた別の話です。


大学受験は偏差値によって難易度が区別されていますが、これは大学受験の上記性質の表れではないかと思うわけです。


特に入れ込んでいる教授が大学受験生の段階でいる高校生は今時少ないという現状を踏まえると、例えば同じ法学部を受験するのならば、より上位の大学に行きより高度な教育を受けたいという理屈になるのではないでしょうか。


つまり、結局受験生の段階では大学に合格できるかどうかというのは、自分が目標をクリアできるか、というわけで、より高度な目標をクリアしたという事実が証明するのはまとめればより高度な目標設定・達成能力がある、ということではないでしょうか。


これは就職活動でみても明らかです。


いくら学歴社会が崩壊しつつあるとはいえ、現実的に学歴が上記のような個々の能力を示している以上、原石となるのは企業からしてみれば特殊なケースを除けば明らかなのです。


ただ、今の大学生はきっと大学受験で培った能力を大学に入ってから上手に使えていないのではないでしょうか。


この辺を踏まえて次回、大学合格後の未来を受験生の皆さんが描けるような記事を書きたいと思います(*бωб*)ノ

今日うるぐすというスポーツ番組で巨人の坂本選手が取り上げられていました。


最近野球を見なくなっていましたが(中学までは野球をしていました)、坂本選手がバッターボックスに立っているのをふと見たことがあって、なんかかっこいいなと思っていたわけです。


何回か試合ではなく、番組で見たことが元々あったのですが、何と彼は僕より年下!!


そんな彼が巨人の1番ショートでレギュラーを取っていると知って、ちょっと気になっていたんです。


やはり「プロ」は常に自分の“理想”をもっているんですね。


と、今日のグアムの自主トレ合宿の録画を見て思いました。




僕の場合は受験指導者として、学生として、人間としてそれぞれ理想を描いています。


しかし、実際に行動しているときにいちいち理想を意識しているのか、と言えば改まったタイミングがないと、そうでもないのかもしれません。


そう思ったとき自分がまだまだ一流には程遠いと感じました。


僕はまだ22歳。でも、もう22歳ともいえます。


22年あったら人はだいぶ変わると思います。


まだ自分の両親が生きた年月の半分も僕は過ごしていないんだなと、この記事を書いていて思いました。


一時一時の理想をクリアし、人生全体を通しての自分の理想を実現するべく、日々自分に向き合って生きていきたいと思って綴った日記でした。