当時勤めていた会社が新宿の高層ビルにあった為、震災の時の揺れはかなりのものでした。


窓から見える都庁やビル群が木のようにしなっており、女性社員が叫び声を上げて怯える中、どうしても地震を怖いと思えなかった私は、「おお、すげえ〜」なんて言いながら、半ば他人事のように感じていました。


チームの責任者として数名で会社に残り、他の社員は自宅まで歩いて帰って行く事に。

オフィス内にはテレビが無く、インターネットも非常に混み合っていたので、外の状況を知る事は困難でした。


20時まで仕事をして、オフィスを出る頃には、なんと都営大江戸線が動いているとの情報が。


人が少なくガラガラの無敵の都営大江戸線当時流行っていたMHP2ndをやりながら乗って、出来る限り家の近くまで行くことが出来たので、さほど苦労なく家に帰れました。



家に着いてテレビを見て愕然。


津波に飲み込まれる街。車。


燃え上がる石油コンビナート。


そして原子力発電所。



この世の終わりのような景色を見て、「死」を間近に感じました。


たまたま、体調を崩し仕事を休んでいた妻は難を逃れたものの、鉢植えが倒れたり、溢れたトイレの水の処理にご苦労なされたそうです。



数日後の朝のテレビで、震災直後から家に帰れず学校に寝泊まりしていた小学生の男の子の、お母さんとの再会の場面を流していたのですが、

男の子の第一声が、

あれぇ?お母さんどうしてここにいるの〜?

でした。

驚きと安堵で、咄嗟に出た言葉だったのでしょうね。

お母さんが生きているのかも分からない不安を堪えながら生活していて、いざお母さんと対面できた時に、ドラマのような反応はできないのでしょうね。

とてもリアルに感じたものです。


その言葉の後は、安堵から子供らしく泣きじゃくっている姿が印象的でした。




今年、南三陸の食材を購入するという奉仕活動に参加させていただいたのですが、お礼のメッセージと共に、現地はまだまだ苦しい状況が続いているとも綴られておりました。


大災害の記憶は忘れてはなりませんし、出来る範囲での支援も行っていく必要があるのかと思います。



震災の年に授かり、翌年に生まれた娘は地震の怖さを知らずに生きている訳ですが、

このような災害の記憶を引き継いでいくことも、とても大切な勉強ですよね。