珍奇なるギャツビー | 犬獣戯画

犬獣戯画

下町のロビンソン・クルーソー。
『最後の秘境は他人』がモットー。

 事実は小説より奇なり、と申しますな。これを最近覚えた(既に死語である)ネットスラングで表すならば、私は「禿同」である。

 私はもともと本を読む青年であったのだが、最近めっきり読書量が減ってしまった。集中力の低下や感性の鈍磨などの理由をこじつけようと思えば表現の仕方はいくらでもあるが、味気ない言い方をしてしまえば「“コンテンツ”として飽きちゃった」というのが一番近い気がする。

 若い頃は寺山修司の『書を捨てよ、街へ出よう』なんかを部屋に籠ったまま貪るようにして読むという本末転倒な時間を積み重ねていたのだが、私も人生の先がそう長くはないことに気づき(せいぜい生きてもあと六十年程度)、時間をもっと有意義な“現実”に使おうと思っている。

 

 ではその分の関心が今どこに向いているかというと“他者”なのである。

 某書で上野千鶴子大センセーが『最後の秘境は他人』と仰っていたが、これにも“禿同”。私の心の中のインディ・ジョーンズはグイグイ“他者(他人)”という秘境の中に押し入っていく。もちろん許可証であるとかパスポートのようなものは持ち合わせていない。そもそも私にはデリカシーというものが欠如している。

 

 また、“他者”の味わい深い点は“リスクがある”ということだろう。

 『本』は人を直接的に殺傷することはないが(あくまでも暴力的な意味で※書物が人を飲み込む場合は少なからずあると思う)、『他者』という存在はふとしたはずみで何をするかわからない。

 そういったリスキーさも含めて、私は現在『他者』への関心が尽きない。

 

 そんな私、只今しがない日雇い労働者でございまして。暗いところからは明るいところがよく見える。ついでに路上の金言をごろごろ拾っておるんですな。

 先日も山谷のとある会合の打ち上げで、懐中不如意の旨を申告した上で小さくなって飲み食いをしていた私に向かってボス(生きる上で必要以上の(無駄も含める)経験値を積んできたような香ばしい仕上がりの存在を私はこう呼ぶ)の一人がこう言った。

 ———おい、お前はまだ若いんだからもっと飲め、遠慮せずに食え。金も酒もあると思えばある、ないと思えばないもんだ。

 ———あら、ほなオトーサン、今日は懐中が暖かいのんかい?

 ———いや、俺も金はない。

 いやァ、非常に人間味に溢れる金言だと思いましたな。人の暖かさに触れたような気もするし、面の皮が2パーミリ程度厚くなったような気もする。これだからやめらンないだよ、オラ。

 

 脈絡もなく文章は続くが、そもそも私は『先天性協調性不全症』という奇病を持っていて※なぜこれが奇病かというと私が自分で命名したからということもあって(またグーグルで調べたがヒットしなかった)、現時点で世界中に症例が私一人という状態なのである。この事実がCIAとかNASAとかスノーデンにバレたら私は希少な被験体として捕獲されてしまうかもしれない。

 症例をいくつか挙げてみると、まず団体行動ができない※これ基本。皆様の身近な例えでいうと遠足で迷子になっちゃうヤツね、あれが入り口。

 そいでもって、人の流れ(メインストリートの流れの方向)の逆の方向に身体が向いちゃう。何かでうわっと人並みが割れたりすると、身体が自然とテキが向かってくるであろうそちらに進んでしまう。これは“好奇心過多”という別の原因もあるかもしれないが、ドーナツ化現象の中心部に向かうと考えていただければ想像しやすいかもしれない。

 あとは「人と同じことが出来ない」というところは致命的ですらある。他人と一列に並んで同じ行動を取ることが恥ずかしくてならない。人や家族は「隊列から外れる方がよっぽど恥ずかしい」と私を諭すが、私は他人からの珍奇の目を逃れるために隊列に並ぶくらいなら自分の矜持と心中する方を選ぶ。他人が私を見て何を思いどう言おうが構わないが、自分で自分を恥じるということがどれほど苦く悔しいものであるか。

 故に『サラリーマン』なんてのが合わない。過去にも何度か正社員・サラリーマンになったこともあったが日々恥じ入るような暮らしであった。思い起こせば、小学校一年生の時の学級文集の『将来の夢』という欄に、クラスの皆が色とりどりの未来を描いていた中で、唯一私だけが『サラリーマン』と記入して皆に失笑されたのが懐かしい。奴等は「此奴、夢のない奴だな」と思ったかもしれないが、当時(先天性協調性不全症は既に発症している、先天性だから)の私からすれば精一杯の夢であった。そしてどうやらそれから四半世紀ほど経た現在もやっぱり叶わず、そしてできれば叶えたくない夢である。

 

 その『先天性協調性不全症』という希少な持病に、青年時代からの『不眠症』(これも話すと長いので別の機会に譲る)、そして十年ほど前に『鬱病』という割とポピュラーな病が重なった。だが悪いことに『鬱病』というヤツには“完治”の明確な数値が出ないものだから、念のために今でもほんの気持ち程度の抗鬱剤と過剰なほどの睡眠薬を服用している※担当医はその睡眠薬の量を「象でも寝る量」という表現をしていた。

 幸いなことに私は立派なジャンキーになるための資質であるところの“胃腸の強さ”が備わっており、抗鬱剤くらいなら酒のつまみに齧っちゃったりするので一緒に呑んでいる友人の方がむしろ不安がっている。

 そこにまた「根が明るい」という要素が絡まりあって、一時期は「躁鬱病かしら?」と自分を疑いもしたけれども、医師の見解と古い友人の証言からもソレは病気ではなく性格であると強く否定され、惜しくも現時点では『ポップな狂人』という表現が一番しっくりくるように内心では思っている。

 

 まぁそんなこんなの複雑な要素が絡まりあって、若いうちから「どうせ長生きは出来ないだろう」と思っていたので“計画性”というものも育たなかったのだが、つい先だっての年末年始に突如雷に打たれたように「よし、長生きをすることにしよう!」と思い立ち、今年に入ってから会う友人会う友人にその決意を告げては皆に苦笑されている。どうやら彼ら・彼女らは私が早死にするとは露にも思っていなかったようで、いやはやどうにも御粗末な感が拭えない。

 

 だからと言って今更“寄らば大樹の陰”的な生き方は(就職する為のポイントである年齢や経歴等よりも、個人的な心境として)気分的にも自分的にもムヅカシイというのが本音であるから、そこを大切にしつつ手探りであっても消え去るよりも燃え尽きるように生き抜いてしまおうと決意新たな春である。

 

 『暗中模索』という言葉は耳障りが良いが、私のイメージとしてはおっぱいパブのサービスタイムで暗くなった照明の中でおっぱいを探しつつ齧り付くような感じなのだよね。

 ま、結局ものは言いようですから。ひとつ好意的に解釈してください。

 

 

【珍奇男】

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