父のこと *命日に亡くなる日までこと* | still i like it 〜それでも私はそれが好き♡〜

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プチプラで日常に寄り添う楽しみを1日1善。地方住まいのアラフィフ主婦。

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『 身長は158cm。 日常に寄り添うプチプラ好きで主に体型カバーや着回しが出来る服を求め考え続ける上半身の大きいアラフィフ主婦です。時々、鏡が好きなワンコも登場します。よろしくお願いします あしあと


今日は父の命日です

しまむら購入品もあるのですが

やはり父のことについて

書こうと決めました

重い内容になるので

嫌な方はスルーして下さいね汗うさぎ



なぜ父のことを書こうと思ったのか、、、

それはだいたいの方はいずれはご両親の介護という現実が待ち受けていると思います。私の体験談で少しでも参考になればと思い父のことを書いてみました。よろしくお願いしますおねがい



父のこと


今回は去年の1月6日から

父が亡くなるまでの事になります


1月6日

父が心配で電話をしました

すると12月25日にまた高熱がでたと父。でも病院に行くと熱は下がって落ち着いたそうで、次の日は通院の日だったので炎症止めの点滴をして帰宅したそうです。ロレツがあまり回ってない父の話し方にまた数日後は入院かなぁと思いながら電話を切りました。


その5日後の11日

母から泣きながら電話がかかって来ました。医師からもう永くないと言われたと。そしてまた入院になったと。私は母が入院していた時に父の外来に付き合っていて薄々は気づいていたので、やっぱりかぁという気持ちでした。冷静に母をなだめ、こんな時に申し訳ないけど、葬儀の事もこれから考えていかないとね、と母に言い電話を切りました。その日は主人が早く帰ってきて側にいたので医師に言われた事を告げたら流石に涙が出ました。もう少し生きてくれると思っていたんだけどねと。主人からほんとかそれ?大げさに言ってんじゃないのと言われ私も半信半疑でした。


*父がもう永くないと知った日について



次の日

母に電話すると眠れなかったと。母には妹がいて早くにご主人を亡くされていたので今後の事を相談してみたら?と言い電話を切りました。何も知らない父はなんで入院しなきゃならないんだ!と怒り毎日の様に帰りたいと電話してきました。


それから10日間は入院しました。その間に母は頑張って葬儀の契約をして来ました。私は毎日、母と連絡をとりあい退院の前日には父が食べれそうな物を送りました


22日に父は退院しました

私の送った鰻ボーンが美味しいと元気そうに話しましたが、、、


その3日後の25日

朝の7時頃に電話が鳴り驚いて出ると姉からでした。朝方に母から電話があり父がトイレから部屋へ戻る時に歩けなくなりベッドにも登れなくなって、救急車を呼んだほうがいいかな?と姉はすぐ呼んだほうがいいって言ったんだと。もう、大人しく入院していてくれるといいんだけどねと私はこれから仕事だからあなたに一応言っておくからとかなり怒っていました。その2時間後に母から電話があり、救急車で運ばれた事と医師にもうここで出来る事はないから緩和病院に入るか自宅でみるかを決めてほしいと言われたと言っていました


その次の日の26日

やっと病院側から母にソーシャルワーカーさんを紹介されました。あと主人はどのくらいなんですか?と母が聞いたら看護師さんに聞いてくれ永くはないそうですと言われたそうでした。


次の日の27日

母から9時くらいに連絡が来て父が退院したらあなた来てくれる?と言うのでいいよと答えると大変よ看とるのと言う母、はぁ?何言ってんのしっかりしてよ!!と思わず母に怒ってしまいました。母が姉に相談したら家で看るのは覚悟がいるのよ足が悪いのにときついと事を言われたそう。なんで姉はまたそう不安を煽る事を言ってんのかとうんざりしましたが、ソーシャルワーカーさんによく相談して決めてねと言ってもこちらの話を聞いてない母は電話を切ってしまいました。

父は毎日、帰りたい帰りたいと電話をしてきてコロナだからまだ退院出来ないのよって言ってもここにいたら頭がおかしくなるから帰りたいと泣いたそうです。ほんとコロナじゃなかったら母も毎日側にいて付き添えたしお見舞いに来た人もいただろうし、父は大人しく入院していたと思うし家族もここまで振り回されなかったし。父はとても心細かったと思います。特にそこの病院は厳しくて県外の私は病棟の入り口に行っただけで夜勤の看護師に嫌味を言われました。コロナを恨みました。


次の日の28日

緩和病院に入る為には本人の承諾がいります。ソーシャルワーカーさんに自宅で看ると本人も帰りたがっているからと母は決めて言ったそうです。

それから往診してもらえる医師をやっと探してもらう事に。


3日後の31日

やっと往診してくれる医師と連絡がとれ今、交渉中です。とここでまたコロナの勢いが酷くなり父の病棟でも発症者が出たので暫く退院は無理となります。その事を父に伝えても帰りたいとばかり言っていたそうです。


そして2月に入りました

最初に言っていた医師の往診のスケジュールが埋まっているので違う医師をソーシャルワーカーさんが探していました。病院の医師から永くないので早くして!と強く言われ急いでいますと連絡があったと母。母はどのくらいと言われましたかと聞いたら2週間はもたないそうですと言われたと。私は嘘でしょ?病院を追い出したくて言ってるんじゃないのとまた半信半疑でしたが(本当に失礼)今となればその言葉は本当でした。


2月7日

それから色々とありましたがやっと医師も見つかりケアマネさんや訪問看護師さんも決まり準備万端の体制で父は退院しました

退院した父はやっと帰ってこれたと泣いたそうです。でもお腹には腹水がたまり尿管が入っていました。点滴もしていましたが頑張って食べていると伝えたら次の日に医師がやめてくれました。

その日に私は主人に送ってもらい実家に帰省しました。


2月8日

この日から父は

自分でフォークが持てなくなり

私が食事の介助をしないと食べれなくなりましたが3食を頑張って食べていました。

夕方、お腹が張ると辛そうで泣きそうになっていました。


2月9日

甥っ子達が姉と一緒に会いに来てくれました

父は意識朦朧としていましたが

甥っ子達のことはきちんとわかり嬉しそうでした

夜は眠れないらしく、朝方にサイダーが飲みたいと言っていたそうですが母はまだ飲めないんだよと諭したと言っていたそうです。


2月10日

父の友達が会いに来てくれました

父は嬉しそうに話ていました

朝方にオムツが汚れたと母と二人で交換しました


2月11日

父はお風呂に入りました

気持ち良かったと言っていました

姉が父の様子を見に来てくれました

バレンタインのチョコを持ってきてくれました



2月12日

お腹が張って苦しそうでした

この頃まで私を父は認識していました

たまに父が父じゃなくなります

夜中にトイレに行くと騒ぎ寝ませんでした


2月13日

訪問看護師さんが休みだったので

姉がまた来てくれました

でも父は姉だともうわかっていませんでした

この日の夜中に幻覚症状が出ました

痛み止めを飲んで朝方やっと寝ました


2月14日

お昼から食べ物を

飲み込む力が弱くなってきました

夜はやっとプリンとメロンを食べました

薬がもう飲み込めませんでした

この日から痛み止めの坐薬を入れました


2月15日

亡くなる2日前

食事が出来なくなりました

水分を飲み込む力もなくなりました

訪問看護師さんに

瞳孔も開いていて血圧も落ちています。あと2.3日だと思うので会いたい人に会わせて下さいと言われました。信じられませんでした。母から姉に連絡をして!と言われましたがまだ大丈夫なのにと思っていました。姉は午後から仕事を休みすぐに来てくれました。夜はやはり寝れないらしくよく叫んでいました


2月16日

父は夜、一睡もしませんでした

ずっと叫んでいました

朝方、姉が父のとこに行く音で

目が覚めてついていきオムツ交換をしました

下血していました

それからも

10分おきに叫んでいたそうです


2月17日

亡くなる日の朝、父は吐血しました

私が気づいて姉を呼び訪問看護師さんに連絡して戻ると皆んなが父を囲んで泣いていましたが私は泣けませんでした。現実を受け入れてないのとこれからどうしたらいいのかと思って呆然としていました。訪問看護師さんがすぐに来てくれ体を綺麗にしてくれました。姉も手伝いました。その後、医師が来て父に止血剤をいれてくれ、話がありますと言われたのでリビングへ通しました。そこで医師がいよいよその時が来ましたと話してくれました。これからのことについて説明をして下さいました。医師が帰った後、母に今夜はここでみんなで寝ようねっと言いました。


夕方、父の手を触ると冷たくて

ああ、もうほんとに近づいているのかと悲しくなりましたが母のいる所で泣くわけにもいかず、シュンの散歩に行くと外に出て、近くの駐車場に行き膝から崩れ落ちてワーワー声を出して泣きました


帰宅すると父の息づかいはだんだんと荒くなっていきました。姉が脈をはかろうとしますがはかれませんでした。食事担当の私はとりあえずご飯だけ炊いてくるというと母がここにいて!こんな時に食事はいいからと。多分、17時近くだったと思います。それを聞いて姉がとりあえず準備だけしておこうといい姉が鍋を作り私はお米をといでいました。すると母がパパが息してない!!と叫びました。行くと微かに息をしていました。顎が上がってきています。急がないとと姉をそこに残し私は鍋だけをなんとか作り終えシュンにご飯をあげました。そして父の所に急いでシュンと行きベッドにのり冷たい父の足を撫でました。ママの事は大丈夫だからいけるならいってね、今まで守ってくれてありがとうと言いました。父は私を待っていたかの様にそれからゆっくりとゆっくりと息をしなくなっていき最後にひと呼吸して穏やかにいきました。


18時10分でした

あまり苦しむ事もなく穏やかに父がいけたのは医師と訪問看護師さんのおかげだったと本当に感謝の気持ちで今もいっぱいです。

皆んな泣いていましたが、私はやっぱり泣けませんでした。暫く父を見つめていました。姉にもう少ししたら訪問看護師さんに電話しようと言われわかったといい、25分になるのを待って連絡をしました。それから父の所へ戻ってきていっぱい嘘をついてごめんねと父の顔を撫でました。父は更にもうとっても冷たかったです


それから訪問看護師さんがすぐに来てくれ

皆さんで一緒にお別れをしましょうと言って

下さいました

19時過ぎに医師がきて確認

私は19時40分くらいに

病院へ死亡証明書の書類を取りに行きました


帰宅すると

訪問看護師さんが処置を終えて下さっていました

そして

最後に父に深々とお辞儀をしてくれました

その姿をみたら今まで堪えていた想いと感謝の気持ちでありがとうございましたと涙が溢れました。もらい泣きするからやめて下さいよと笑わせてくれ帰宅しました


それから親戚に姉が連絡したり

母が父の友人に連絡したり

明日の事を決めたりと

とにかく悲しいけど決めなきゃならない事

やらなきゃならない事が山の様にあり

姉はイライラと爆発していました

本当はこういう時

親戚の方が近くにいてやってくれるのですが

とにかくコロナなので姉と私でやるしかありませんそして時々、母w


それから葬儀屋さんに連絡

葬儀屋さんに来て頂いたのが

21時くらいだったかなぁ


22時近くにやっと

急いで作った夕食を皆んなで食べました

あの時、急いで作っておいて良かったです

次の日からマッハに忙しくなりましたから

ここを読んでくださっている方も

どんな時でも少しだけは食べておいて下さいね

その後の体力に変わります


父と交わした最後の言葉は

おはようございますでした

私とわかってなかったけど

おはようございますと返してくれました

母の言葉だけは亡くなる直前までわかっていました


シュンはその日

父から離れず

父の部屋で寝ました


次の日からまた目まぐるしいくらいに忙しかったです

看病からずっと寝てないのに決めなきゃいけない

やらなきゃならない事が山ほどあり

おかげで痩せましたw

悲しんでいられなんですよね

それがとにかく辛かったです

その事についてはまた今度、書こうと思います


とっても長くなりましたが

最後までお読み頂きありがとうございました



*最初に父のことを書いたのはここからでした



父の好きだった

 おはぎとお酒