光市母子殺害事件、被告の元少年に死刑判決 | 朝の書評

光市母子殺害事件、被告の元少年に死刑判決

AFPBB News

光市母子殺害事件、被告の元少年に死刑判決[2008年04月22日 17:30]

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2381603/2856398

【4月22日 AFP】山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審の判決公判が22日、広島高裁で開かれ、同裁判所は殺人と強姦(ごうかん)致死などの罪に問われた当時18歳の元少年(27)に死刑を言い渡した。

 事件は1999年、元少年が会社員本村洋(Hiroshi Motomura)さん(32)宅に押し入り、妻の本村弥生(Yayoi Motomura)さん(当時23)と長女の夕夏ちゃん(当時11か月)を首を絞めるなどして殺害したもの。同高裁は、弥生さんへの乱暴目的も認定した。

 判決言い渡しに際し、同高裁の楢崎康英(Yasuhide Narazaki)裁判長は、犯行は「冷酷、残虐で非人間的だ」とし、被告は「罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑を免れようと懸命になっているだけだ。反省心を欠いており、極刑はやむを得ない」と述べた。
 被告側弁護団は判決を不服として即日上告した。(c)AFP
 死刑制度支持者のポピュラーな意見として、「命を奪ったものは自らの命で償え」というものがありますが、なぜあらためて犯人の命を「奪う」ことが償うことになるのでしょうか。
 まず、「奪う」という言葉の本来の意味は、何かから何かを取り去るということです。けれども、命は他人が取って手に入れたり保管したりすることができません。また、命はその人のものであると同時にその人そのものですから、「何かから何かを取り去る」という原義から外れます。なるほど辞書には「命を奪う」という用例が載っていますが、それはそのような言葉遣いをする社会的慣習があるということでしかありません。
 あくまで言葉の意味を厳密に考えるとき、「命を奪う」というのは比喩表現です。正確には「命を殺す」です。殺すことを「奪う」と比喩的に表現するのは、犯人の故意性の強調、被害者の被害の側面の強調という意味合いがあると思われます。
 次に、「償う」という言葉の意味について考えますと、これは、原状回復または損失補填です。たとえば、物を盗んだら盗んだものを返す、あるいは、壊してしまったら直す、直せない場合は金銭などで代償を支払うということです。
 命は殺してしまうと原状回復できませんし、命に代えられるほど価値のあるものも存在しませんから、殺人を償うことはできません。そもそも被害者が死んでいるのだから、償うべき対象が存在しません。
 ある犯罪を殺人と呼び、別の犯罪を強盗と呼ぶのは、命は取り返せないが、物は取り返せるからであり、だから異なる犯罪として別の名前が付いているわけですが、両者に「奪う」という同じ言葉をあてがうことによって、異なる二つを類似のものとして連想する習慣が形成されてきました。そうやって殺人を強盗のアナロジーで考えることによって初めて、「命を奪ったならば償うべき」という発想が生まれてくるのですが、すでに述べたように、命を殺すことはできても、持ち去ることはできませんから、当然、返すこともできないのです。そして返せない場合は同等の代替物で賠償する、ということのアナロジーから、さらに論理を超越した「犯人の命を殺すことによって償いとする」という奇妙なアイデアが生まれてくるようですが、しかし、論理的に考えれば、犯人の命を殺してもなんの賠償にもなりません。
 賠償ではなくて刑罰という観点から見ると、殺人は重罪であり厳罰を科すべきことは明らかです。しかしながら、私たちが許容できる懲罰には限度があります。たとえば拷問は非人道的であるゆえに認められません。そして、死刑は拷問の極北であり、当然、非人道的刑罰です。よって、拷問に代えて有期刑を科し、死刑に代えて終身刑を科するのが妥当でしょう。ところが、拷問には反対するが死刑には反対しないという人がかなりいるように見えます。
 なぜでしょうか。
 習慣化した言葉が合理的思考を束縛し歪めているからではないか、とわたしは疑っています。便利な比喩表現が一人歩きして、辞書にまで用例が載り、いつのまにか事実であるかのように扱われ、無自覚のうちに私たちの思考を制約しているのではないでしょうか。
 「殺す」を「奪う」に勝手に言い換え、それを根拠に「奪ったものは償うべき」と言う。そして償われるべきは被害者の命でありそれは他のもので代替することができないものであるのに、そこから「命」という言葉だけを切り取り、「被害者の命を」というところを「加害者の命で」と文脈をすりかえ、いつのまにか「加害者の命を殺す」というまったく別の話を始める。
 「命を奪ったものは自らの命で償え」という幾重にも比喩が重なった詩的表現が、人々を幻惑し、思考停止させているのです。「命を奪う」というのも「命で償う」というのも、事実からかけ離れた感情論です。論理的因果関係のまったくないアナロジーにすぎません。アナロジーで人を殺すのは、魔女狩りや人身御供と同じく野蛮な行為です。ですから、わたしは死刑制度に反対です。