シャンタンさんのmixi日記よりコピーしました~♪
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1877224345&owner_id=26825206
osho
この宇宙的次元においては、あらゆるものが遊戯だ。
すべてが遊戯であることを理解するだけでなく、ひとたび自覚したら、あなたは完全にやすらいでいる。
絶対的にやすらいでいる。
そうなったら緊張はない。
あなたはくつろいでいる。
自我は存在しない。
自我はくつろぐことができない。
それは緊張を食べて生きている。
緊張を餌にしている。
自我がなければ、緊張はない。
そのときあなたはすべてを含んでいる。
過去もなければ、未来もない。
あなたは永遠だ。
そうなったら、起こることはすべてハプニングだ。
あなたがそれをしているわけではない。
あなたの手で何かを成就しなければならないわけでもない。
そういったことはすべて錯覚だ。
宗教的な人でさえ、何かを行うという観点でものを考えることがある。
そのとき自我は、確たるものとなり、信仰の影にかくれ、より危険なものになっている。
自我がそこにある以上、行為者と行為の二つがそこにある。
対象が変わっただけで、プロセスは同じだ。
私にとって・・そして私が「私」と呼ぶときには、そう呼ばれている者はいない。
それは言葉の方便であり、私の言っていることをあなたに理解させるために使っているだけだ。
私にとって「私」とか「あなた」とか呼ばれうる者などいないのだが、
それでは言葉が使えなくなる。
真理を言葉で表現できないのはそのためだ。
真理はいかなる形の言葉にもならない。
なぜなら、言葉は存在しない者たち・・
真実ではない者たち、実在しない者たちによってつくられているからだ。
空想の産物である自我が言葉をつくりだした。
言葉は自我から生まれるために、決して自我を超えることができない。
「私」と呼ばれうる者などいないとわかっていても、話すときにはそれを使わざるをえない。
だが、私は誰もいないことをあなたに思い起こさせる。
この「私」に関する限り、何も為される必要はない。
ものごとはひとりでに起こるからだ。
私たち自身が起こっている。
私たちは様々な形で生起している。
存在全体がハプニングであって、行為ではない。
神は創造者であるという古い概念は私には無意味だと言っておいたほうがよいだろう。
私は「神は創造者だ」とは言わない。
なぜなら、その表現は、創造、行為という私たちの自己中心的な概念を反映しているからだ。
私たちは、私たちがちょうど何かを為すように、神が世界を創造したと考える。
宇宙的な領域に自らを投影したがために、創造者や創造がある。
二分法がそこにある。
私にとって、「神」とは起こるもの・・創造者ではなく、起こりつづけるものだ。
「神」とは、永遠に起こりつづけるものを言う。
それゆえに、起こるものはすべて神だ。
あなたも、そしてすべての人が様々な形で生起している。
この永遠のハプニングが神だ。
創造者もいなければ、創造もない。
二分法そのものが自己中心的だ。
それは宇宙の領域に映し出されている私たちの影だ。
ひとたび自分の内側が行為者と行為の二つに分裂していないことがわかれば、
行為者や行為はなく、様々なハプニングのみがあることがわかる。
ひとたびこの永遠のハプニングが開示されれば、重荷もなく、緊張もない。
あなたの誕生はハプニングであり、あなたの死もハプニングとなる。
あなたがここにいることもハプニングであり、あなたがここにいないこともハプニングとなる。
あなたはどこにも存在しない。
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osho
この宇宙的次元においては、あらゆるものが遊戯だ。
すべてが遊戯であることを理解するだけでなく、ひとたび自覚したら、あなたは完全にやすらいでいる。
絶対的にやすらいでいる。
そうなったら緊張はない。
あなたはくつろいでいる。
自我は存在しない。
自我はくつろぐことができない。
それは緊張を食べて生きている。
緊張を餌にしている。
自我がなければ、緊張はない。
そのときあなたはすべてを含んでいる。
過去もなければ、未来もない。
あなたは永遠だ。
そうなったら、起こることはすべてハプニングだ。
あなたがそれをしているわけではない。
あなたの手で何かを成就しなければならないわけでもない。
そういったことはすべて錯覚だ。
宗教的な人でさえ、何かを行うという観点でものを考えることがある。
そのとき自我は、確たるものとなり、信仰の影にかくれ、より危険なものになっている。
自我がそこにある以上、行為者と行為の二つがそこにある。
対象が変わっただけで、プロセスは同じだ。
私にとって・・そして私が「私」と呼ぶときには、そう呼ばれている者はいない。
それは言葉の方便であり、私の言っていることをあなたに理解させるために使っているだけだ。
私にとって「私」とか「あなた」とか呼ばれうる者などいないのだが、
それでは言葉が使えなくなる。
真理を言葉で表現できないのはそのためだ。
真理はいかなる形の言葉にもならない。
なぜなら、言葉は存在しない者たち・・
真実ではない者たち、実在しない者たちによってつくられているからだ。
空想の産物である自我が言葉をつくりだした。
言葉は自我から生まれるために、決して自我を超えることができない。
「私」と呼ばれうる者などいないとわかっていても、話すときにはそれを使わざるをえない。
だが、私は誰もいないことをあなたに思い起こさせる。
この「私」に関する限り、何も為される必要はない。
ものごとはひとりでに起こるからだ。
私たち自身が起こっている。
私たちは様々な形で生起している。
存在全体がハプニングであって、行為ではない。
神は創造者であるという古い概念は私には無意味だと言っておいたほうがよいだろう。
私は「神は創造者だ」とは言わない。
なぜなら、その表現は、創造、行為という私たちの自己中心的な概念を反映しているからだ。
私たちは、私たちがちょうど何かを為すように、神が世界を創造したと考える。
宇宙的な領域に自らを投影したがために、創造者や創造がある。
二分法がそこにある。
私にとって、「神」とは起こるもの・・創造者ではなく、起こりつづけるものだ。
「神」とは、永遠に起こりつづけるものを言う。
それゆえに、起こるものはすべて神だ。
あなたも、そしてすべての人が様々な形で生起している。
この永遠のハプニングが神だ。
創造者もいなければ、創造もない。
二分法そのものが自己中心的だ。
それは宇宙の領域に映し出されている私たちの影だ。
ひとたび自分の内側が行為者と行為の二つに分裂していないことがわかれば、
行為者や行為はなく、様々なハプニングのみがあることがわかる。
ひとたびこの永遠のハプニングが開示されれば、重荷もなく、緊張もない。
あなたの誕生はハプニングであり、あなたの死もハプニングとなる。
あなたがここにいることもハプニングであり、あなたがここにいないこともハプニングとなる。
あなたはどこにも存在しない。
