osho


まずはじめに瞑想について覚えておくべきことは、なされ得る何かではないということだ。

世界中の人々が、瞑想とは何かを「する」ことだと考えている。

それは、何か「する」ようなことではない。

行為でもない。

それは何か、起こるようなことだ。

あなたが向かって行くのではなく、それ自身が

あなたのもとへやって来て、あなたを貫くようなことだ。

ある意味であなたを破壊し、別な意味で、あなたを再創造するようなことだ。


それは何かとても活力に満ち、あまりにも果てしなきものなので、

あなたが「する」ような事柄の一部にはなり得ない。

では、どうすればいいのだろうか?

それが起こる状況を創ることなら出来るだろう。


あなたに出来ることの全ては、存在に対して全方向に無防備で、オープンでいることだけだ。

通常、私達は牢獄の中にいるようなものだ。

自分自身の中に閉じ込められていて、それが開くことはない。

ある意味で私達は死んでいる。

私達は、生が自分の中へと入り込まぬように防御するようになってしまっている。

だから、生は私達のもとにはやって来れない。

私達は生に対して、障害を、妨げを作ってしまった。

なぜなら、そうしなければ生は危険なものに、制御出来ないものになりかねないからだ。

生とは、私達の手中にはない何かだ。


私達は確実で安全でいられる為に、心地よくいられるように、

自分自身を閉ざされた存在にしてしまった。

この閉ざされた存在は便利だ。

だが同時に、それによって私達は鈍くなっていく。

閉じれば閉じるほど、生き生きとしなくなる。

だが、よりオープンになれば、私達はもっと生き生きとしてくる。

瞑想とは、あらゆる次元に対してオープンでいることだ。

あらゆる物事にオープンでいることだ。

だが、全ての物事にオープンでいることは危険でもあり、

全ての事柄に無条件にオープンでいれば、安全ではなくなってしまう。

そうなればあらゆる事が起こり得るので、それは心地よくはなり得ない。

安全で心地よく、確実さを求めるマインドは、瞑想的なマインドではあり得ない。

生が差し出すものなら何でもオープンでいられるマインド、

ひとつと全ての出来事を歓迎するマインド、たとえ死でさえ受け入れるマインドだけが、

瞑想が起こる状況を生み出すことが出来る。

だからあなたに出来る唯一のことは、瞑想に対して受容的であること、

全面的に受容的であること・・何か特別なことに対してだけでなく、

やって来る全てのものに受容的であることだ。


瞑想とは、特別な次元ではない。

それは、無次元の存在だ。

ひとつと全ての次元に対して無条件にオープンでいることだ。

何の欲望もなく、何の期待もないことだ。

もし何かの期待があったら、そのオープンさは全面的ではなくなってしまう。

もし何かの条件が、何かの欲望があれば、もしそこに、

何かの「もしも」があったら、そのオープンさは全面的ではなくなってしまう。

あなたは、全面的に開いていなくてはならない。

もし全面的に開いていなければ、活力に満ち溢れてはいないし、

時間と空間を超えた究極の出来事を迎え入れられないだろう。

それはあなたの「客」にはなり得ないし、あなたも客を招く「主人」になることは出来ない。

瞑想とはまさに、何かが起こり得るような受容的な状況を創造することだ。


そしてあなたに出来る唯一のことは、待つことなのだ。

待つマインドとは、知られざるものを待っている状態を指している。

なぜなら、これから起こることは、前もって知ることは出来ないからだ。

あなたにはそれを思い描くことすら出来ない。

それについては何かを聞いたことがあるかもしれない。

だがそれは、あなたの認識によって得られた成果ではない。

それは知られないままだ。

知られざるものを待っているマインドが、瞑想的なマインドなのだ。

知られざるものを待っている時、知識は邪魔になる。


なぜなら知識の中でより知っていればいるほど、自分自身を堅く閉ざしてしまうからだ。


あなたは「知っている」という気分でいるべきではない。


完全に無知でなくてはならない。



その時にのみ、知られざるものはあなたへとやって来る。




自分自身の無知に気づく瞬間、自分は知らないということを知る瞬間、






これが知られざるものを待ち始める瞬間だ。