質問
「OSHO、あなたを愛しています。あなたのジョークも大好きです。
 最近私は、とても深刻な日々を過ごしています。
 この光明のゲーム全体が、とても重いものに感じます。だから、もっとジョークをお願いします」

osho

マジーダ、

光明というものが、光明という考えそのものが、世の中に存在する最大のジョークだ。
光明とは、既に持っているものを獲得しようとする努力であるため、それはジョークだ。

それは、あなたが既にいるところに到達しようとする努力だ。
それは、全く存在しないものを取り除こうという努力だ。
それは、馬鹿げた骨折りだ。

あなたは、最初の最初から光明を得ている。
光明はあなたの本性だ。
光明は、達成すべきものではない。

それは目的地ではなく、あなたがやってきたところだ。
それは、あなたのエネルギーそのものだ。

しかし、一度あなたが光明を目的地と考え始めると、あなたは深刻になってしまう。
あなたは、多くのトラブルに巻き込まれる。
---それは、あなたが自分で創り出した全く不要なものだ。
それに、あなたは決して成功することはない。

何故なら、光明を目的地と考えることからして、要点を逃しているからだ。

それは、探求できるようなものではない。
それは、探求者の中に存在している。
探求者は、それを探すことはできないのだ!

もし探求者がそれを探そうとしたら、それは決して見つからない。
それは、誰かが眼鏡をかけているのに、眼鏡を探そうとしているようなものだ。

彼は、眼鏡の助けを借りて眼鏡を探しているのに、それに気付かない。
馬鹿げている!

<あなた>が自分で、深刻なトリップを創り出している。
あなたはそれを目的地にしようとしているが、それはあなたがやってきたろころだ。

あなたはそれを自分の野望の対象にしようとしているが、それは既にあなたの実状だ。
最初の最初から、誰も光明を得ていない人はいない。

だったら、人々に何が起こったのか?
何故彼らは探しているのだろうか?
何故彼らは探し続けようとするのだろうか?
何故彼らは、そこから目的地を創ろうとするのか?

人生においては、光明以外の全てのものは見つけ出される必要がある。

もしお金がほしければ、それをゴールにする必要がある。
そうしなければ、それを見つけることはできない。
あなたは、そのために一生懸命に働く必要があり、その野望にあなたの全エネルギーを注ぐ必要がある。

そうしたとしても、確実というわけではない。
それを見つけられるかもしれないし、見つけられないかもしれない。

もし権力がほしければ、あなたはあらゆる方法でそれを見つけ出さなければならない。
合法であれ、非合法であれ、正しい方法であれ、間違った方法であれ、探し求めなければならない。

人生においては、全てのものは、見つけ出さなければならない。

何故なら、あなたはお金を持ってくることができなかったからだ。
あなたは、権力を持ってくることができず、宮殿を持ってくることができなかったからだ。

あなたは、裸で、空っぽの手でやってきて、裸で、空っぽの手で去って行く。
あなたはこの世のものを、それがみんな必要とされているにも関わらず、持ってくることはできない。

だからあなたは、あれやこれやのものを達成しようと突っ走ることになる。

これらのものがあなたから取り上げられるだろうという考えが、だんだんとあなたに起こり始める。

死がやってきて、全てを奪い去る。

あなたは、ショックを受け、恐怖がわき起こる。
恐怖から、あなたは自分から取り去られない何かを探そうと考え始める。

神や真実や光明やニルヴァーナを、どんな名前で呼んでもいいが・・・
今度はあなたは、ニルヴァーナや光明や神やサマーディを、
お金や権力や名声を探したのと同じやり方で探し始める。

何故ならあなたは、ある道理を学んだからだ。
あなたは、あるプログラムを学んだからだ。
今では、そのプログラムはこう言う。

「お金は、探し求めることがなければ得られなかった。
 だから、探し求めることがなかったらとうやって光明を得ることができるだろうか?
 だから、探そう。探し求めよう。戦おう。奮闘しよう」 と。

ここに物事の核心がある。
そうやってあなたは、馬鹿げたことをやり始める。

お金が欲しければ、探し求めなければならなかったが、光明は既にそこにある。

あなたは、それを携えてやってきた。
それは、あなたの本来の顔だ。
それは、あなたの空(くう)であり、あなたの意識であり、あなたの在りようだ。

あなたが死ぬとき、光明以外の全てが、あなたの意識以外の全てが死ぬ。
誰もそれを、あなたから奪うことはできない。

だが、あなたが世の中で学んだ道理は、あなたを狂気に駆り立てる。

お金や権力や名声を探し求めることは、とても道理にかなっているが、
光明を探し求めることは、道理に合っていない。
もしそうしてしまったら、それはとても深刻な重い旅になるだろう。
だから、宗教的な人々はとても深刻に見えるのだ。

宗教的な人々は、誰かが深刻でない限り、彼を宗教的だとは見なさない。
深刻さが、宗教的であることとほとんど同意語になってしまった。
---悲しく、憂鬱な顔をしていることが宗教的だ。

あなたは、聖者が笑っているのを見ることがあるかね?
だから、いわゆるインド人の聖者が私に反対する理由だ。

彼らは、光明を得た人がジョークを言えるとは信じられない。
彼らには信じられないのだ!

私自身の経験によれば、光明を得た人だけがジョークを言える。
他にどうしようがあるかね?

彼は、全てのジョークの中で最大のジョークを見てしまった。
彼は、光明を探し求めることの馬鹿馬鹿しさの全容を見てしまった。

人は、探し求めることなしに光明を見いだすが、
それは、ある日とても失望する地点がきて、全ての努力を落とすことによってだ。

人は正にそのような瞬間に、このことに気が付く。
探し求めることを止めたとき、野望が消えたとき、あなたは自分の在りようとともに取り残される。

どこにも行く場所がなく、あなたは内側に居る。
内側の旅は、本当は旅ではない。

全ての旅が消えたとき--- 行くところがどこもなく、行くことへの興味もなく、
全ての方向を探したのに、全て失敗してしまった、そのとき ・・・
どうしようもない失望のうちに、あなたはただ止まる。

あなたは、挫折する。
しかし、正にその挫折が、変容の瞬間なのだ。

どこにもいくところがないので、あなたは内側にいる。
何も探し求めず、探求者だけが残っている。

何も捕まえる努力なしに、あなたはふいにその捕まえる人に気付く。

どんな対象物にも興味がなかったら、

--- お金にも光明にも神にも興味がなかったら ---

主体だけがそこにある。

あなたは、我が家に戻ってきた・・・

そうしたら、大笑いがある。

何故なら、あなたはいつだってそこにいたからだ。