osho
仏陀は3人目の僧に尋ねた....人の生の長さはどのように測るか。
僧は答えた....息によって。
仏陀は言った....よろしい。おまえは道を知っている。
英語の訳では「息によって」となっているが、
それだとあまり意味が伝わらない。
僧が仏陀に言った言葉は「プラーナによって」だ。
「息」とは「プラーナ」の訳だが、
プラーナという言葉には、息よりもずっと大きな意味がある。
しかるべき訳語、真実に近い訳は、「生気(スピリット)」だ。
「ブレス」じゃない。
このスピリットという言葉は、
インスピレーション(入息、霊感)とか
エクスピレーション(出息)といった言葉の中にも含まれている。
スピリットのほうが本来の意味に近いが、
まだ完全に正確というわけではない。
だからまずプラーナについて説明しよう。
そうすればきっと理解できるだろう。
さもないと、この問答は少し不条理な感じがする....
男は言う「息によって」、
そして仏陀は言う「よろしい。お前は道を知っている」。
男はただ「息によって」と言っただけだ。
まず最初に....自分自身を見てみると、そこには身体がある。
それは自分をめぐる第一の円環、最も外側の円環だ。
それから心がある。
第一の円環の内側にある第二の円環だ。
そしてそこに橋がある。
その橋こそが息、つまりプラーナだ。
その橋によって人は魂と結ばれている。
だからこそ、人が呼吸しなくなると、
「彼は死んだ」と言われる。
橋が壊れた。
そして魂と身体が離れ離れになった。
生まれた子どもが、まず最初に行うことが、呼吸だ。
息によって、魂と身体が結ばれる。
そしてまた、人が死ぬ時に最後にすることが、呼吸をやめることだ。
再びそこには分離がある。身体と魂が離れる。
プラーナは橋であり、
あなたをたえずくっつけている糊でもある。
人は食物なしで何日も生きられる。
水なしで何時間も生きられる。
ところが息なしでは、何分も生きられない。
何秒かのうちに苦しくなる。
息が橋渡しするもの、それは物質と非物質であり、
形あるものと形なきものであり、また、世界と神だ....
それらを何と呼んでもいい。
息は橋だ。
そして息は多くのものに影響を与えている。
どのように息をするか、
自分のプラーナの質は何か....それは多くのものに影響を与えている。
見つめてごらん。
怒っている時と、静かにしている時では、呼吸の仕方が違う。
調子が違う。リズムが違う。
怒っている時、息は規則的ではない。
音楽的ではない。
調和的ではない。
不規則だ。
興奮している時、
性的に興奮している時、やはり息は熱っぽい。
調子が整っていない。
呼吸に何かおかしいところがある。
静かに坐って、穏かに、何もせず、
欲望も興奮も怒りもなく、ただ慈悲に満ち、愛に満ちていれば、
呼吸は非常に柔らかになる。
呼吸にリズムが現れ、ダンスが現れる。
何の暴力もなく、攻撃性もない。
呼吸はごく繊細になる。
気づいたことがあるだろうか。
興奮状態の時、息はとても臭くなる。
ところが安らかである時、息はたいへん甘い匂いになる。
自分がくつろいでいるから、存在全体もくつろいでいる。
自分が安らいでいる時には、呼吸がそのことを表す。
深い瞑想の中で、呼吸がほとんど止まる時がある。
ほとんどだ。完全に止まるわけではない。
でもほんとうに静かになるから、感じられないくらいだ。
それが感じられるのは、鼻のところに鏡をもってきた時だけだ。
そうすれば鏡の上に感じられる。
そうせずには感じられない。
それは、たぐいまれな祝福と恵みのひとときだ。
世界のヨーガ体系はすべて、呼吸に働きかけてきた。
なぜなら呼吸を通じて、身体から非身体へと移行するからだ。
呼吸を通じて、自己の存在の最も内奥の核へと入っていく。
その僧の言ったことは正しい。
彼は言う、
「人間の生を測るのは、
その人がどのように息をするか、その人の息の仕方だ」。
恐れていたら、呼吸は変わってくる。
緊張していたら、呼吸は変わってくる。
悲しんでいたら、呼吸は変わってくる。
気分が変わるごとに、呼吸も変わってくる。
呼吸によって、自分がどこにいるかわかる。
呼吸を観察できれば、自己内部の気候変動のイロハが学べる。
全ての気分が呼吸に反映されるのがわかる。
呼吸とは偉大な方法であって、
それによって、自分がどこにいるか、
自分とは何か、自分が何をしているかが測れる。
仏陀は呼吸をきわめて重視した。
その重視の仕方はユニークだった。
パタンジャリとはまったく違っていた。
ハタ・ヨーガとはまったく違っていた。
他の体系、全ての体系とまったく違っていた。
彼は言う。
呼吸を制御してはいけない。
もし呼吸に何かをしたら、人工的なものを創り出してしまう。
要は呼吸を自然にさせ、ただそれを見つめることだ。
それに対して何もせず、ただ観照者となり、ただそれを見る。
呼吸を見つめれば、だんだん、
自分が呼吸とは別のものだとわかってくる。
当然だ。見つめるものは見つめられるものではありえない。
主体は対象ではありえない。
観察者は観察物ではありえない。
自分の呼吸を見つめ始めれば……。
そして仏陀は、持続的にそれをしろと言う。
歩いている時、坐っている時、他のことを何もやっていない時、
ひたすら自分の呼吸を見つめる。
それを見続ける。見続けることによって、
大いなる静けさが自分の中に生じる。
なぜならその時人は、呼吸の背後に立っているからだ。
呼吸の背後には自分の魂がある。
人は自分の魂に中心(センター)を据える。
呼吸を見つめれば、きっとわかるだろう。
呼吸の微妙な変化によって、自分がどこにいるかわかる。
呼吸はいつでもひとつの物差しとして見ることができる。
覚醒が満ちていれば、呼吸のわずかな変化にも気づく。
そうしたらその変化をもたらしたものを、
その瞬間、その場で落とすのだ。
すると、もっと覚醒できる。
仏陀は3人目の僧に尋ねた....人の生の長さはどのように測るか。
僧は答えた....息によって。
仏陀は言った....よろしい。おまえは道を知っている。
英語の訳では「息によって」となっているが、
それだとあまり意味が伝わらない。
僧が仏陀に言った言葉は「プラーナによって」だ。
「息」とは「プラーナ」の訳だが、
プラーナという言葉には、息よりもずっと大きな意味がある。
しかるべき訳語、真実に近い訳は、「生気(スピリット)」だ。
「ブレス」じゃない。
このスピリットという言葉は、
インスピレーション(入息、霊感)とか
エクスピレーション(出息)といった言葉の中にも含まれている。
スピリットのほうが本来の意味に近いが、
まだ完全に正確というわけではない。
だからまずプラーナについて説明しよう。
そうすればきっと理解できるだろう。
さもないと、この問答は少し不条理な感じがする....
男は言う「息によって」、
そして仏陀は言う「よろしい。お前は道を知っている」。
男はただ「息によって」と言っただけだ。
まず最初に....自分自身を見てみると、そこには身体がある。
それは自分をめぐる第一の円環、最も外側の円環だ。
それから心がある。
第一の円環の内側にある第二の円環だ。
そしてそこに橋がある。
その橋こそが息、つまりプラーナだ。
その橋によって人は魂と結ばれている。
だからこそ、人が呼吸しなくなると、
「彼は死んだ」と言われる。
橋が壊れた。
そして魂と身体が離れ離れになった。
生まれた子どもが、まず最初に行うことが、呼吸だ。
息によって、魂と身体が結ばれる。
そしてまた、人が死ぬ時に最後にすることが、呼吸をやめることだ。
再びそこには分離がある。身体と魂が離れる。
プラーナは橋であり、
あなたをたえずくっつけている糊でもある。
人は食物なしで何日も生きられる。
水なしで何時間も生きられる。
ところが息なしでは、何分も生きられない。
何秒かのうちに苦しくなる。
息が橋渡しするもの、それは物質と非物質であり、
形あるものと形なきものであり、また、世界と神だ....
それらを何と呼んでもいい。
息は橋だ。
そして息は多くのものに影響を与えている。
どのように息をするか、
自分のプラーナの質は何か....それは多くのものに影響を与えている。
見つめてごらん。
怒っている時と、静かにしている時では、呼吸の仕方が違う。
調子が違う。リズムが違う。
怒っている時、息は規則的ではない。
音楽的ではない。
調和的ではない。
不規則だ。
興奮している時、
性的に興奮している時、やはり息は熱っぽい。
調子が整っていない。
呼吸に何かおかしいところがある。
静かに坐って、穏かに、何もせず、
欲望も興奮も怒りもなく、ただ慈悲に満ち、愛に満ちていれば、
呼吸は非常に柔らかになる。
呼吸にリズムが現れ、ダンスが現れる。
何の暴力もなく、攻撃性もない。
呼吸はごく繊細になる。
気づいたことがあるだろうか。
興奮状態の時、息はとても臭くなる。
ところが安らかである時、息はたいへん甘い匂いになる。
自分がくつろいでいるから、存在全体もくつろいでいる。
自分が安らいでいる時には、呼吸がそのことを表す。
深い瞑想の中で、呼吸がほとんど止まる時がある。
ほとんどだ。完全に止まるわけではない。
でもほんとうに静かになるから、感じられないくらいだ。
それが感じられるのは、鼻のところに鏡をもってきた時だけだ。
そうすれば鏡の上に感じられる。
そうせずには感じられない。
それは、たぐいまれな祝福と恵みのひとときだ。
世界のヨーガ体系はすべて、呼吸に働きかけてきた。
なぜなら呼吸を通じて、身体から非身体へと移行するからだ。
呼吸を通じて、自己の存在の最も内奥の核へと入っていく。
その僧の言ったことは正しい。
彼は言う、
「人間の生を測るのは、
その人がどのように息をするか、その人の息の仕方だ」。
恐れていたら、呼吸は変わってくる。
緊張していたら、呼吸は変わってくる。
悲しんでいたら、呼吸は変わってくる。
気分が変わるごとに、呼吸も変わってくる。
呼吸によって、自分がどこにいるかわかる。
呼吸を観察できれば、自己内部の気候変動のイロハが学べる。
全ての気分が呼吸に反映されるのがわかる。
呼吸とは偉大な方法であって、
それによって、自分がどこにいるか、
自分とは何か、自分が何をしているかが測れる。
仏陀は呼吸をきわめて重視した。
その重視の仕方はユニークだった。
パタンジャリとはまったく違っていた。
ハタ・ヨーガとはまったく違っていた。
他の体系、全ての体系とまったく違っていた。
彼は言う。
呼吸を制御してはいけない。
もし呼吸に何かをしたら、人工的なものを創り出してしまう。
要は呼吸を自然にさせ、ただそれを見つめることだ。
それに対して何もせず、ただ観照者となり、ただそれを見る。
呼吸を見つめれば、だんだん、
自分が呼吸とは別のものだとわかってくる。
当然だ。見つめるものは見つめられるものではありえない。
主体は対象ではありえない。
観察者は観察物ではありえない。
自分の呼吸を見つめ始めれば……。
そして仏陀は、持続的にそれをしろと言う。
歩いている時、坐っている時、他のことを何もやっていない時、
ひたすら自分の呼吸を見つめる。
それを見続ける。見続けることによって、
大いなる静けさが自分の中に生じる。
なぜならその時人は、呼吸の背後に立っているからだ。
呼吸の背後には自分の魂がある。
人は自分の魂に中心(センター)を据える。
呼吸を見つめれば、きっとわかるだろう。
呼吸の微妙な変化によって、自分がどこにいるかわかる。
呼吸はいつでもひとつの物差しとして見ることができる。
覚醒が満ちていれば、呼吸のわずかな変化にも気づく。
そうしたらその変化をもたらしたものを、
その瞬間、その場で落とすのだ。
すると、もっと覚醒できる。
