親愛なるOSHO、
あなたと共にあった月日は、愛と感謝のシャワーのようでした。
気持ちのいい大洋にいるようでした。
あなたと離れて過ごしていると、ときにはとても辛いのですが、
同時にとても深いものがあります。
マスターと弟子の関係について、もう一度何か言ってもらえませんか?
弟子とマスターの関係についてなら、
もう一度と言わず、私は千と一回でも、繰り返して言おう。
何故なら、それには多くの側面があるのだが、
私が何かいうときは、一つの側面しか取り上げられないからだ。
一つ最も重要なことは、それは束縛や契約のようなものではなく、
基本的には、自由な二人の個人の出会い、
自由に基づく出会いだということだ。
どの時点であっても、あなたが束縛だと感じ始めたら、
あなたは道を外しているということだ。
それは、単純に二人の旅人が道を歩いているということだ。
束縛なしに、約束なしに、期待もなしに歩いているということだ。
一人は、道を知っている。
彼はその道を何回も行ったり来たりした。
あるときは一人で、あるときは誰かといっしょに。
彼は、目をつぶってもその道を歩ける。
彼は、その道筋についてとてもよく知っている。
もう一人の方は新しくやってきた人で、その道に慣れていない。
この二人の間にある唯一のものは、ある種の愛、信頼だ。
そして、それも経験に基づくものだ。
というのも、弟子は、マスターがいつも正しいということを
見ることができたからだ。
たくさんの分かれ道があったのに、彼はいつも正しい道を見つけた。
そこにはたくさんの落とし穴があったのに、
彼はいつも、前に落とし穴があることに気づかせてくれた。
「もう少し、気を付けなさい」と。
この人といっしょに歩くうちに、だんだんと信頼ができてきた。
それは、信じることではない。
それは、経験に基づくものだ。
もしこのマスターがいなかったら自分はどこか別の場所に
行ってしまっていただろうことを、彼は何度も見てきた。
そこには、とても美しい道、脇道があった。
そこに行きたいという欲望があった。
だが、このマスターは、正しい道に気づいただけではなく、
旅の道連れの男の欲望にも気づいていた。
マスターは、彼に言い続けた。
「いや、そういう風に考えてはいけない。
その欲望は、災難をもたらすだろう」と。
その正しさを、その明晰さを、マスターの経験を、
何度も見るにつれ、信頼が生まれた。
だから、それは単純な信じること、信仰ではない。
それは、実存に即したもので、科学的なものだ。
マスターと弟子の関係は、最も実存に即したものの一つだ。
想像によるものではなく、作り話によるものでもなく、
誰かの意見によるものでもなく
誰か他の人が言ったことによるものでもなく、
それは、あなたが見たものに基づいており、
あなたが経験したものに基づいている。
そして、引き続きそうであり続ける。
そして、マスターを疑うことが不可能になる瞬間がくる。
それは、マスターが「疑うな」というからではない。
それどころか、マスターはこう言う。
「疑う機会を逃してはならない。
何故なら、それは自分の知性をとぎすますことになるからだ。
疑え、トータルに疑え」と。
そして、真実を疑うことが無意味だといいうことを知っているからこそ、
マスターはそう言うことができるのだ。
作り話についてなら、疑うことは物騒なことになる。
疑いは、作り話を破壊できるからだ。
だが真実については、疑いはそれを強化するだけだ。
マスターと弟子の関係は、とてつもなく知性的だ。
それは人々が普通に考えるようなものではない。
隷属し、精神的に依存し、個人の尊厳を失うといった、
そういうものではない。
疑うことを許されず、疑いが禁じられ、信じることが奨励される、
そういうものではない。
本当のマスターの下では、状況は全く違う。
マスターは恐れていないので、疑いが奨励される。
あなたは好きなだけ疑うことができる。
しかし、あなたは疑いにも関わらず、真実を受け入れなければならない。
それは精神的な隷属ではなく、独立だ。
マスターの努力は、あなたにもっと個人の尊厳を与えることだ。
もちろん、彼はあなたの人格を取り去る。
あなたは、その違いを明白に理解する必要がある。
個人の尊厳は、あなたの生まれながらの性質で、
人格は仮面にすぎない。
そして、その仮面は剥ぎ取られなければならない。
あなたの、本来の顔が見つけられなければならない。
あなたが偽物なら、あなたは真実に至ることはできない。
真実だけが、真実に出会うことができる。
あなたは、究極の自由がほしいのかね?
そうなら、最初の一歩は、自由でなければならない。
最初の一歩が自由であって初めて、最後の一歩も自由でありえる。
何故なら、それは成長している同じものだからだ。
