生まれるとき人間はある特定の部位、

 特定のチャクラ(中心)に根付いている。
 それは臍だ。
 日本ではハラと呼ばれている。
 そこからハラキリという言葉が出てきた。
 ハラキリとは自殺のことだ。
 字義どおりにいえば、
 この言葉はハラつまり中心を殺すという意味だ。
 ハラとは中心だ。
 その中心を破壊することがハラキリの意味だ。

 ある意味では我々は皆ハラキリをやっている。
 中心を殺してこそいないが忘れている。
 あるいは、まるっきり思い出さないでいる。
 中心はそこで待っている。
 ところが我々は漂いながら、どんどん遠ざかっている。
 生まれた子供は、ハラにある臍に根付いている。
 ハラを通じて生きている。
 子供が呼吸しているところを見てごらん。
 臍が上下している。
 子供は腹部で呼吸する。
 子供は腹部で生きる 頭でも、ハートでもない。
 だがやがて、そこから少しづつ離れ去っていく。              

 最初、子供は別の中心を成長させる。
 それはハート、つまり感情の中心だ。
 彼は愛を知る。彼は愛される。
 そしてこのセンターが成長する。
 このセンターは真の中心ではない。
 この中心は副産物だ。
 だからこそ、心理学者が
 「愛されたことのない子供は、愛することができない」
 と言うのだ。
 もし子供が愛のない環境に育ったら……
 誰ひとり愛やぬくもりを与えてくれない冷たい環境に育ったら、
 彼自身、生涯誰も愛することができない。
 なぜならそのセンターそのものが成長しないからだ。
 母の愛、父の愛、家族、社会、
 そういったもののおかげでセンターは成長する。
 このセンターは副産物だ。
 生まれつきの中心ではない。
 手助けがなければ、そのセンターは成長しない。

 非常に多くの人々がこの愛のセンターを欠いている。
 愛について語りながら、
 「自分は愛している」と信じながら、
 その中心を欠いている。
 それでどうして愛せるだろう。
 愛深い母を得ることは難しい。
 じつに難しい。
 そして愛深い父を得ることは稀だ。
 どの父親も、どの母親も、自分では愛していると考えている。
 だがことはそれほど簡単ではない。
 愛を成長させることは難しい。
 じつに難しい。
 最初に愛がなかったら、その子供自身もまた愛することができない。

 だからこそ、全人類は愛なしで生きているのだ。
 次々に子供をつくりながら、
 どうやって愛の中心(センター)を与えるかを知らない。
 その逆に、社会は、文明化すればするほど、
 第3のセンター、つまり「知性」を強制するようになる。
 臍が元来の中心だ。
 子供はそれを持って生まれる。
 それは副産物ではない。
 それなしには生は不可能だ。
 だからそれは元からある。
 第2のセンターは副産物だ。
 子供は愛を得れば応える。
 このような応答の中で中心が成長する。
 それがハート・センターだ。
 そして第3のセンターは理性、知性、頭だ。
 教育、論理、そして訓練が第3のセンターを創り上げる。
 これもやはり副産物だ。

 我々は第3のセンターに生きている。
 第2はほとんど不在だ。
 あるいは存在していても、機能していない。
 あるいはたまに機能することはあっても、その機能は不規則だ。
 ところが第3のセンター、
 つまり頭は、生の基本的な力となっている。
 生全体がこの第3のセンターに依存している。
 このセンターは実用的だ。
 推論、論理、思考のために必要だ。
 だから遅かれ早かれ、誰もがみな頭指向になり、
 頭の中で生きるようになる。

 頭、ハート、臍、この3つがセンターだ。
 臍は生まれつきのセンター、もともとの中心だ。
 ハートは開発できる。
 ハートの開発は、いろいろな意味でいいことだ。
 理性もまた開発する必要がある。
 だが、理性を開発するにしても、ハートを犠牲にしてはいけない。
 もしハートを犠牲にして理性を開発したら、
 そのつながりが失われ再び臍へ戻ることができなくなる。
 理性から<存在>へというのが発展の道筋だ。
 次のように考えてみよう。

 臍のセンターは在ること=ビーイング(存在)の中にある。
 ハートのセンターは感じること=フィーリングの中にある。
 頭のセンターは知ること=ノーイングの中にある。
 知ることは在ることからもっとも遠い。
 感じることの方が近い。
 だから感じるセンターを欠いたら、

 理性と存在の間に架け橋を作るのは非常に難しい。
 

だからこそ往々にして、



 愛深い人間のほうが、知性で生きる人間より、





 たやすく自分の「我が家のくつろぎ」を覚る(さとる)のだ。