by osho


たとえば、暴力的な人間がいるとする。
彼はどうにかして、非暴力的になろうとするだろう....。
非暴力的になれば、宗教的になれると思って.....。
非暴力的になれば、神に近づけると思って。
また残虐な人間は、
どうにかして慈悲深くなろうとするだろう。

たとえそうしたところで何も変わらない。
本人は同じままだ。
彼の慈悲には、残虐さがつきまとう。
それは余計に危険だ。
彼の非暴力には、暴力がつきまとう。
その暴力はさらに微妙になる。
彼は暴力的に非暴力となる。
その非暴力には、
暴力のあらゆる狂気がある。
また彼はその慈悲を通じ、
残虐を行う。

慈悲によって人が殺される。
人々はそうして殺されてきた。
宗教戦争というものが数多く存在している。
そうした戦争は慈悲の心をもって行なわれる。

人を殺すにしても、
じつに慈悲深く、
じつに非暴力的にやる。
愛の心をもって人を殺す。

というのも、
殺すのも 当 人 の た め だからだ。
相手を殺すのも、
それが当人のためになるから。
当人にとって助けとなるからだ。

自分の行為を変えたところで、
行為を変えようとする努力は、
じつは根本的な変化を避けるための方便だったりする。

根本的な変化のためには、
まず自分が存在することだ。
自分の存在について、
もっと気づきを深め、
意識的になる。
そうして初めて、
在 る こ と が現れる。

あなたはけっして自分を感じない。
ときに感じることはあっても、
それは他人を通じてだ.....。
興奮とか刺激とか反発を通じてだ。
誰かほかの人間が必要だ。
ほかの人間を通じて、
あなたは自分を感じる。

これは不条理だ。

ひとりでいて興奮もなく、
鏡となる人間が存在しないと、
あなたは眠りに落ちる。
退屈する。
けっして自分を感じない。
在 る ということがない。
あなたは不在のうちに生きる。

この 不 在 で あ る こ と は非宗教的だ。
自己の存在に満たされるということ.....。
自己の存在の光に満たされるということ。
それは宗教的だ。

だからこれが基本的に重要な点だ。

私はあなたの行為を重視しない。

あなたが何をするかはどうでもいい。

私が重視するのは、


あなたが 何 か ということだ....。


不在か実在か、




気づいているか気づいていないか....。




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ここ最近、言葉にできなくって観じていたこと。。。
このことな気がする。。。
周りにこれを上手く伝えられなくて。。。
でもわかった!
わかる人は何かをしなくてもわかるし、わからない人は何をしてもわからない。
ただそれだけなんだってこと☆
そしてこれを読み終わったときメールが届いた。
わたしがメールした返事だったけど。。。
つたない文章のわたしを言葉でないところでちゃんとわかってくれた♪良かった☆
有り難う御座居ました。すべてのタイミングと采配に感謝です。 Merci☆