先週メガネ(近視用+乱視が少々)を注文していたのが今日でき上がった。メガネをかけるのはほぼ10年ぶりである。

あまり信用してもらえないのだが、10年前まで僕はずっと近視用のメガネを着用していて、なぜかしらないけど10年前に視力が戻ったのでメガネをかけなくなったのである。視力回復のために何か特別なことをやったわけではない。

でも、最近右目が見えにくくなったので、この際メガネを作ることにした。といっても、日常生活に困ることはないので、せいぜいプロジェクターを使った会議や映画館でくらいしか使う機会はなさそうである。会議にしろ映画にしろ頻繁にはないので、実際問題、使用頻度はかなり低くなりそうである。

つーか、僕は単純にメガネが好きなのである。だから、度が入っていないサングラスをかけることも多かった。それに、メガネをかけた女性が好きなのである。メガネフェチとまではいかないにしろ、そそられるのである。

人生において何度か分かれ道を通ってきた。

右に往くべきか左に進むべきか。

悩んだ末に選んだ道はことごとく間違っていたような気がする。

人によってはどちらの道も正解で、

またある人にとってはどちらも間違った道だということもあるだろう。

選ばなかった方の道は二度と通れないのだから、

その道が正解だったのかは分からないのだけど、

僕が選んだ道はすべて間違いだったような気がしてならない。


絵的には気に入った。本編前の他の映画の予告編の一つに『ゲド戦記』があったのだが、これはストーリーがどうのこうの言う前に絵がヒドイ。観ようって気にならない。

イノセンス 』とか『アップルシード』みたいなジャパニメーションな絵も好きなのだが、それらは観ていて頭(目ではなく)が疲れる。『ブレイブ ストーリー』はスッと頭に入る絵なので好感が持てる。

話の筋書きは、原作を読んでないのであくまで映画として思ったのは、「ま、それなり」である。少なくとも小学低学年向きではない。中高生あたりから大人までOKではあるけれど、「すごく面白い」ではない。でも「ツマラナイ」でもない。だから、「それなり」なのである。

この絵柄を使って別の話をつくったらウケると思うんだけど。

きのうは七夕。

僕には関係ない。


きれいなおねえさんは好きですか?

僕は嫌いです。

きれいなおねえさんを好きになっても、

どうしようもないじゃないですか。

好きなだけで話もできないってツライじゃないですか。

世の中の女性がみんなブスならいいとたまに思う。



ビクターエンタテインメント
マルコムX

★★★★☆

スパイク・リー監督は、マルコムXの言葉を借りてメッセージを送りたかったのだろう。


南の空が光る。闇夜を引き裂くような稲妻ではない。雷の場所が遠すぎるし雨も降っているので、空の一部がまとめて光って見える。

雷に撃たれて死ぬことを考える。撃たれる前と撃たれた後の狭間にある死は一瞬である。病気で弱って死ぬことと真反対である。

ゆるゆるとした死を迎える恐怖は雷による死にはない。でも、死を迎える覚悟を持つ間もない。死んだことを自覚することすらできないのかもしれない。そういう死に方はあまりいいものとは思えない。

だからなに?

何が言いたい、朝日新聞?


4日付け朝日新聞で、「国保の保険料の長期滞納を理由に保険証を返還させられ、代わりに『被保険者資格証明書』を交付されても、医療機関ではいったん医療費を全額自己負担しなければならず、結果として受診を手控えるケースが後を絶たない」という記事が載っていた。

保険という制度は個人的なリスクを分散させるためのシステムであり、当たり前だけど保険に加入している者にしか適用はない。分かり易く言えば、生命保険に加入していない人が亡くなっても保険金が支払われることはない。「私の旦那が死にました。家計が貧しくて生命保険に加入していませんでした。それって不公平じゃありませんか?」という寡婦はいません。生命保険だと納得するのに、国保だと納得できないとすればおかしなことです。

本来、診療行為はサービスであり、サービスに対して対価を払うということは美容室で髪を切ってもらったら料金を払うことと同じである。なのに、なぜ散髪代には保険がなく治療費には保険があるかというと、治療とは生命に関わることであり健康で文化的な生活をおくる権利を守るために必要であり、国はその権利を保護する必要から保険制度を考え出したのである。


記事には事実しか書いてなくて、特に現在の保険制度が不公平だとか何か対策を講じるべきだとか、批判的な文言は一切ない。だからこそ、「何が言いたいんだ、朝日新聞?」と問いたい。どういう世論を構築しようと企んでいる?ちゃんと意見言えよ!


保険料払ってないんだったら治療費を全額払うのは当たり前という僕の論調はあくまで保険制度というシステムではそうなると言いたかった(実に冷たい言い方だな)だけなのだが、思うのは、医療費を保険制度で賄おうという考え方には無理があるということだ(年金制度だってそうだけど…)。

保険制度では保険料を払えない人が出てくるのは明らかである。払えない人のためにどうするかというと、生活保護などの社会福祉で対応するか、そもそも保険制度でなく税金で対応するしかないのではないか。現実的には、小さな政府へと舵をきっている今の政府では社会福祉の充実は無理だし、治療費を全額(あるいは7割か)税金から負担するというのも不可能である。。


しかし、僕なりの結論としては、治療費も年金も税金で賄うべきだと思う。そのためには800兆円を超す国の借金は減らさないといけないし、国の無駄遣いもやめないといけないし、適切な課税と徴収が必要である。なかなか簡単にはいかないことでしょう。

だけど、将来に向けての不安がある社会では、少子化は進み、消費は伸びず、経済も社会も発展しない。最低限必要な医療と年金があれば、人は最低限の安心を得ることができると思う。

先日、『ゲロッパ』について書いたのだが、映画でも小説でもそれがどんなに面白いものだったとしても、「あ、ここはマズイな。こんなしたらもっと面白いのに」なんて感想をもつことが結構ある。

そういう感想を持つということは、「オレは自分が観て(読んで)かなり面白いと思った作品でももっと面白く作れる才能があるってことで、つまりはこの監督(作家)よりオレの方が才能があるんだ」って錯覚を惹き起こすのである。「今のオレはしがないグズグズ社会人だけど、世が世なら、あるいは今からでも本気出したら、オレは案外ゲージュツ家で生きていけるんじゃないか」なんていう夢を見るのである。

しかしだ。自分が面白いと思った作品が100点満点の90点だったとして、自分がプラス5点のアイディアを思いついたからといって95点の作品を創れるというものではない。ゼロから90点までを創り上げる能力というものは5点の上乗せができる能力とは別なのである。

この前つまらん小説を書いてみて思ったのは、ゼロから何かを創るということは本当に難しいということだった。単純に言えば、90点の作品を創るということは、上乗せの5点を考え付く18倍(90点÷5点=18)の能力が要るということなのである。人のフンドシ(90点)で相撲を取ってオレは95点だなんて思うのは、勘違いも甚だしいのである。

前々からヘンだと思っていることがあって、それはなにかというと、仕事用のズボンは滅多にクリーニングに出さないってことだ。いま履いているズボンもゆうに1ヶ月以上洗濯しないまま、仕事に行くときは毎日履いている。

ワイシャツも下着も靴下も毎日洗濯している。休日に履くカーゴパンツやら短パンだって2日履いたら洗っている。でも、なぜか仕事用のズボンは違うのだ。

中高生のときは学生服だったけど、僕は1着しか持っていなかった。今どきの中高生は何着か着替えを持っているのかもしれないけど、少なくとも僕の頃は1着しか持っていない人間の方が圧倒的に多かったと思う。

1着しかないから必然的にクリーニングに出すことは滅多になく、そもそもお袋がいつクリーニングに出していたのかすら知らない。もしかすると1年のうちでクリーニングに出すのは、春と夏と冬の休みのときだけだったのかもしれない。

だから、制服はたまにしか洗うものではないという考え方が刷り込まれてしまい、社会人の制服であるズボン(やスーツ)もたまにしか洗うべきでないとなんとなく思い込んでいる気がする。