ここ何年か僕は戦っている。
それは僕が脇阪寿一として獲得してきた、勝利やタイトルをもたらした自分のドライビングスタイルからの脱却。
それはカート時代から始まる。
ライバルたちは当時のサントレードと言うカート界の大手輸入メーカーのカート、エンジンを使用。
僕は親父の友人が経営していたヨーロプロダクトという輸入代理店が扱う少しマイナーなカート、エンジンを使用させてもらい全日本カートを戦い始めた。
今から考えても少し⁈もっと⁈戦力が落ちるカートにエンジン。(山元さんごめんなさいね笑)
だから曲がらない、ライバルにストレートで置いていかれる。
この様な状況下で僕がライバルと差を縮める事が出来たのがブレーキング。
誰よりもコーナーの奥までブレーキを我慢して、クリッピングホイントまでブレーキを残しながらの旋回。
カート自体グリップレベルが低く、バランスを取るためにリアグリップよりのセットにして、曲がらないのをこの様なブレーキングでカバーしたのが僕のドライビングスタイルの始まりでした。
まあ、それにしてもこのカート、エンジン、乗り方では限界があり、カートを始めた19歳から2年目には全日本カートで走ってましたが、毎年表彰台に登るのは地元開催のコースのみ。
転機は94年。
ライバルたちに負け続けるのが嫌だった僕は、初めてメジャーなカート、エンジンを手に入れた。まあ、その為には色々やりました。
周りの反感を買いながらもカートチームを立ち上げたり…我々兄弟による兄弟の為のカートチーム。
これでダメなら辞めると決意して。
この時、手にしたのが優秀な僕のメカニック甲ちゃん(西嶋さん、今のサクシードスポーツJr.のチーフメカ)と、CRGカートに阿部ちゃんのロータックスエンジン、そして大金さんのブリヂストン開発タイヤ、寿一スペシャル‼︎
皆んなの協力でカートもエンジンも速かった!
そして何よりブリヂストンタイヤが素晴らしかった。後で話す今、僕が取り組んでいる、いわゆる欧州的なドライビングスタイルの逆を追求した幅広フロントタイヤ。
誰よりも奥までブレーキを我慢して荷重を残しながらコーナーに進入する僕のドライビングスタイル、その負荷に耐えるフロントタイヤは幅を広げるしか無かったんですね。
今考えると。
この年僕は速かった。笑
今まで苦労していたコーナー立ち上がりも、ストレートも速かった。
それに本来の突っ込みがプラスして。
ライバルは何年もタイトルを取ってきたダンロップタイヤ、それを使用する金石としひろ。
何年ぶりかにブリヂストンで優勝し…
ブリヂストンの方々との涙も経験し…
それでも最終戦、有効ポイント制にやられました。総得点は1位、でも有効ポイントで結果総合2位。
この年ダメなら辞めるつもりの僕でしたから
ブリヂストンタイヤにタイトルをもたらせなかった責任を取って辞めるつもりでいました。
そしたらブリヂストンタイヤの大金さんが
「さあ、寿一これからどうする⁈」
と声をかけてくださり
僕は「辞めます」と言いかけましたが
大金さんが続けて
「貴方は上に行きなさい。もうカートは乗らなくて良い。カートから直接上に行って、ダメで帰ってきた先輩たちの分まで上で暴れてきなさい。カートが乗りたくなったらタイヤはいくらでも用意します。F3に行きなさい。」
この言葉で僕の人生が変わりました。
そしてこの頃のドライビングスタイルが脇阪寿一のそれとなったのです。
それからご縁で戸田レーシングの戸田さん出会い
F3参戦
無限の木村専務に出会い
本田博俊さんに出会い
松本恵二さんに出会い
林みのるさんに出会い
鈴木亜久里さんに出会い
TRDの木村さんに出会いトヨタ入り。
F3からフォーミュラ日本、F1ジョーダン 全日本GT選手権、スーパーGTなどなど、色々な車をドライブさせてもらってきました。
僕のドライビングスタイルが出来るまでをご紹介したので、次はその時々のクルマ、タイヤからどう戦えたかを追って考えていきましょう。
1995 F3 ルーキーオブザイヤー 最高位2位
この年はなんせ戸田さんのエンジン、前田さんのクルマが速かった。ルーキーが乗れる様な車ではありませんでしたね。感謝しています。始めの数戦はシフトダウンすらまともに出来ない状態。
カートと比べてグリップが低く、ドライビングスタイル的には恐々乗っていた印象。
自分を出しきれずに終わったシーズンでしたね。
このシーズンオフ、童夢からフォーミュラ日本のテストに参加。当時ブリヂストンの開発タイヤを使用していたこのクルマ、F3に比べてグリップが高く、ようやくカートに似た感覚でドライブすることができて、違和感なく走れたのを覚えています。クルマも速くタイムも当時のスーパースター高木虎之介とあまり変わらず上位にいた印象。
1996 F3 チャンピオン
2年でトップフォーミュラにと思っていた年、フォーミュラ日本の数チームからのオファーを断り、F3のタイトルを取りF1に乗るためのスーパーライセンス獲得に専念。
ライバル山西選手のドライビングスタイル、走行データを見て???
初めて違う選手のドライビングスタイルを意識。
それでも自分のドライビングスタイルに対する自信が強く…
1997 Fニッポンデビュー
童夢とレイナードの合体シャーシーに手こずり1年が終わる。ドライビングスタイルどうこうでは無かった。
1998 Fニッポン初優勝 F1テストドライバー
今考えると、この時に気づくべきだったかな?!
フォーミュラ日本は依然ブリヂストンがタイヤを供給していたので僕のドライビングスタイルに何の支障もなく…
ただ今から考えるとF1は違ったかもしれない。
この年からF1は大きく変わった。
安全面からコーナーリングスピードを落とす事が目的で、ナロートレッド化でグリップが下がり、さらにタイヤが溝付きタイヤになったのだ。
溝付きタイヤ…
もちろん接地面積が下がるからグリップは低い。
その中でバランスを取るから…
そんなタイヤにブレーキングの縦とコーナーリングの横を合わせて負担かけても無理だよね。
たまにタイムも出たから余計に気にしなかった。
せっかく、グッドイヤーとヨーロッパと言う、色々なドライビングスタイルを気づける環境にあったのにね。この時気づけば良かったのに…
1999 ここから僕のGTが始まります。
もちろんパートナーはブリヂストン
それに童夢が奥さんが、中村さんが、僕の思い通りのクルマを用意してくれました。
僕のドライビングスタイルで速く走れるクルマ、そしてタイヤ。
2000 僕のドライビングスタイルに完全に合わせて設計された奥さんのタカタ童夢NSX
速いクルマでした。
僕は次の年からトヨタへ移籍します。
ここで2001年に童夢をドライブしたセバッチャン・フィリップとリチャード・ライアンへ
ごめんなさいね。
コテコテに僕のドライビングスタイルを追求したクルマ、ヨーロッパスタイルのドライビングの二人には乗りにくかったよね。
またこのNSXが僕を調子に乗せてしまい、自分のドライビングスタイルを疑う事などまず無くなった。
2001 トヨタに来て立川に出会いました。
彼のドライビングスタイルに衝撃を受け…
この頃は自分のスタイルを変えることより、いかに車の開発の方向を自分のドライビングスタイル、ルマンよりに合わせていくようにするかを考えていた気がします。立川のドライビングスタイルに敬意を持ちながら、自分のスタイルを貫いたのです。
2006 トムスに移籍。
アンドレ・ロッテラーとの出会い。
ザ・ヨーロピアンドライビングの完成形。
衝撃を受けましたね。
コーナーでのボトムスピードの速さに、悪条件での速さ。特にタイヤが冷えている時の速さと、雨の速さ、べらぼうでした。それは彼のドライビングスタイルから理にかなった事。
それでも…
今から考えるとアンドレと東條エンジニアが僕のスタイルを理解して合わせてくれたんでしょうね。
またクルマ、タイヤもまだ僕のドライビングスタイルに対応出来るレベルにあったのかもしれません。たくさんの優勝、5年で2度のタイトル、総合2位1回、総合3位1回と高次元で安定した成績を僕に与えてくれました。
僕のドライビングスタイルはここから停滞。
でもアンドレ・ロッテラーは違いましたね。
彼のヨーロピアンドライビングスタイルと日本の言わば僕のようなドライビングスタイルの良い所を融合した新しいドライビングスタイルを確立し、ヨーロッパ出身のアンドレが日本で成長し、逆輸入の様な形でアウディに認められ契約、ルマン24時間で何度も優勝する世界水準のドライバーとして成長していきました。
そして時は経ち
2014 クルマとタイヤのレギュレーションが大きく変わりました。
特にエンジンは小排気量ターボになり、低速域での立ち上がりが鈍く(いわゆるターボラグ)、そしてフロントタイヤのサイズが小さくなりました。
ここまで読んでいただいた方はわかりますよね?
フロントタイヤのサイズが小さくなると、僕のドライビングスタイルにどんな影響を与えるか⁈
そしてブレーキング重視な僕のスタイルは、少しでも早くアクセルを開ける事を要求される小排気量ターボがどう影響するか⁈
2014年は参戦が決まるのが開幕ギリギリで準備不足から1年間、後手後手で戦いました。
もちろん、その間も僕は自分のスタイルをどう変化させ適応させるかを考えて取り組んできました。
ありがたいことに、関口も林エンジニアもTRDも坂東の皆んなもそれに協力してくれました。
去年ブログに可夢偉が僕に最新型のドライビング方法を教えてくれた!って書きましたよね。
それです。
去年の暮れのセパンテスト、今年のセパンテスト、僕個人の課題は、自分のドライビングスタイルの改善、改良です。
皆んな協力してくれてます。
沖縄まで走行データ、車載映像、みんな持ってきています。
それが完成すれば、今シーズンは皆さんが喜んで頂けるレースを、坂東チームと関口とヨコハマタイヤさんとお見せすることができるでしょう!
しかし、僕がそれに順応できなければ…
長年付き合ってきた僕のスタイル。
それを忘れて新たなスタイルに変えるのは想像を絶するほど大変な事だと思います。
でも何事でもそうですが、時代に順応できなければその存在は無くなるのです。
まだまだ頑張らなあかん。
まだまだ走らなあかん。
この世界で生き抜く為に、この戦いに必死で取り組みます。
もう少し見守っていてください。
今週発売のオートスポーツにタイムリーな記事を見つけました。
中嶋一貴が頑張れたこと、俺も絶対やってみせる。
最後にドライビングスタイルについて解説している中納徹さん。
彼は奇しくも僕のドライビングスタイルを作ったあのカート時代の僕のライバルです。
変なご縁を感じました。
会ってお話を聞きたいです。
まあ、全てに
感謝。
最後に
日本人はF1で勝てるのか?
勝てるわい‼︎