第211話 はじめの言葉

   ―じゅっぺ先生の「輝け! 大地保育」―

 

1、 その人の人格形成は幼少期の生活体験が大きく影響します。私は1938年11月26日生まれで 7歳8ヶ月まで満州生まれの満州育ち。小さな引揚者です。現在85歳になります。父親は満鉄の1級電気技師でした。母親は大正4年生まれで高等女学校の時に羽仁もと子さんの自由思想に憧れ、青春時代を日本が最も自由であった大正浪漫を謳歌して育ちました。私はその母の自由思想に育てられるとともに、小さな引揚者としての満州難民の苦難生活で育てられたと思います。山崎豊子「大地の子」主人公、陸一心(ルーイーシン)は私と同じ1938年生まれです。もしも父と母が引揚の逃避行で亡くなっていたら間違いなく私も中国残留孤児になっていたでしょう。 

 

 

2、 日本の敗戦1945年8月15日から1年後の1946年7月27日。祖父の待つ静岡県富士宮市野中に引き揚げてきました。帰国後は食糧難の時代。父の実家は江戸時代から続く名主(庄屋)の家で農地解放後の残された土地で家族全員が農業に従事しました。田植えもしました。麦踏みもしました。薩摩芋も作りました。 豚も山羊も鶏も飼育しました。子どもはみんな手伝いました。働くと子どもたちは褒められました。私はドジョウすくいの名人で3~4合(1合=0.18ℓ)獲ってきました 。母はいつも誉めてくれました。とても嬉しかったのを覚えています。貴重なタンパク質で、お味噌汁に入れて家族全員で食べました。思えばこの頃の遊びと生活体験が私の大地保育環境論の源泉となりました。私はその後、保育・幼児教育の教師・研究者となってからもずっと農業を手伝い続けました。

 

 

3、 敗戦から7年目の1953年に野中保育園は開園しました。今から71年前のことです。当時、野中村は見渡す限りの田畑の農村地帯でしたからみんなお百姓さんでした。保育園ができて安心して働けると、とれた大根やナスやキュウリを届けてくれました。本家の母さん(塩川豊子さんのこと)が育てくれる。ありがたい。ありがたい。と、園の行事にも、草取りや大掃除の勤労奉仕にも園児の家族は総出で園に尽くしてくれました。

 

 

4、 法人の姉妹園「大中里保育園」が2006年に開園すると私は初代園長となり、大地保育の保育思想「自由保育(=子ども主体の保育)」の実践に邁進しました。大地保育の創始者塩川豊子(1915~1999)は「汲みつくすことのできない宝庫である大自然に挑む中で、子どもたちが育てられていく保育」と大地保育を定義しました。私はその実践を保護者のみなさんへお便りで語り続け、また全国の保育者の皆さんへブログ「大地保育ものがたり」で発信し続けております。

 

 

5、 私の著書は「子どもの目線」です。私は子どもを見守り続けて飽きることがありません。棒きれが刀になってしまうではありませんか。泥水がコーヒー牛乳になってしまうのです。どろんこがチョコレート工場ですよ。お大きくなったらパパと結婚する。大きくなったらママと結婚する。こんな!ビックリすることばかりで保育・幼児教育学を研究していくと興味は尽きることがありません。1971年、第24回大会日本保育学会で初めて「保育環境論(1)」を発表したのは32歳の時でした。現在85歳です。実に54年間、理論と実践研究の場として日本保育学会のお世話になりました。こうして「どろんこ保育」「名のない遊び」「大地保育環境論」等々の著作が生まれました。

 

 

6、 母でありで師匠である大地保育創始者の塩川豊子の実践と哲学を何としても世に広めたい私は、文字に書き留め『著書』にして後世に伝えたいと強く願うようになり、実践者となり、研究者となり、学者になりました。そして、大地保育6著作を啓上することができました。なんとそのうちの1冊である「大地保育環境論」を大学の授業で使用してくださった先生に出会いました。お茶の水大学大学院より学術博士号を授与された大須賀隆子先生です。大須賀先生はなんと「大地保育を創始した塩川豊子の自由保育」と言う、塩川豊子論の学術論文をお持ちでした。そこで私はお願いしました。この度の私の著書「じゅっぺちゃんの輝け!大地保育」に研究者の同志として、『塩川寿平の保育・幼児教育学の源泉として「学術論文=塩川豊子論」の掲載は不可欠であることを強くお願いし』この度、友情著作者のお一人となってくださることを快く受けてくださいました。心から感謝申し上げます。こうしてこの本ができましたことを「はじめに」の言葉とさせていただきます。 

 

大地教育研究所所長 塩川寿平 2024年7月吉日