ドキュメンタリー風フィクションによる

教育小説「大地保育ものがたり」

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第1話:プロローグ

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司会者

「言いたいことのある方は手をあげてください。」

 

保護者1

「教授はこの本で何を書きたいのですか。主人公は誰ですか。」

 

教授(著者の塩川寿平)

「この物語の主人公は『教授』です。

昔、大学教授だったから皆さんから教授と呼ばれていたので、

『教授』という名前ででています。」

 

 

 

 

教授が話し始める。

 

「私は1953年(昭和28年)に開園した野中保育園の大地保育に

関わりつづけて、幼児教育学・保育学の研究者の人生を歩みました。

 

私の業績は野中保育園(現野中こども園)と、

姉妹園の大中里保育園(現大中里こども園)の

創立以来の67年間の大地保育の歴史そのものです。

 

のびのびと自由に育てる素晴らしい大地保育を父と母が創りました。

共に生きてきた私の体は、頭のてっぺんから、手の先、

足の先のどこを切っても大地保育の血が流れています。

 

そんな私の人生の全てである、

父と母の創造した大地保育の理論と実践を、

後世に教育文学書として残したいのです。

 

全身全霊で園児を愛した保育仲間と、

大地保育魂を伝えたいのです。」

 

保護者2

「昔の思い出話を書くのですか。」

保護者3

「ノスタルジーならご免被りたいですね。」

 

教授

「いやいや、今、現在のことを書きますよ。

温故知新ですよ。

『ふるきをたずね、あたらしきをしる(孔子)』ですね。

今現在の子どもの生活が大事。

それからAIやICTの時代の未来社会にあっても、

大地保育が大事であることを書きますよ。

 

今は、流行り病の新型コロナウイルスと大地保育が心配ですね。

大人も子どももコロナと闘いながらの

『大地保育の理論と実践』を教育小説で書きますよ。」

 

保護者4

「私が声をかけたらね。ここにいる100人ばかりの皆さん。

教授が教育小説を書くと発表したので、

『ナニ』『ナニ』、『ナンダ』『ナンダ』と集まりました。

 

会場には、大人になった卒園児さんもいますよ。

教授の教え子もいますね。

保護者の方も、

教授のフアンのみなさんも集まりました。

 

教授の書き始める教育小説のことを知りたいのですよ。」

 

 

 

司会者

「ちょっと待ってください。市長さんの放送を聞きましょう。」

・・・・・ちょうど今、集会場の窓を震わすようなスピーカーの声。

富士宮市全域に響き渡る大音量の放送が始まりました。

 

 

 

 

広報担当者

「こちらは広報富士宮です(2020年4月14日)」

 

市長の声(富士宮市全域に流れるスピーカーの声)

 

「今日で、富士宮市からも7名のコロナの感染者が出ました・・・・・

 

(会場責任者が聴きやすいように窓を開ける。

       大きいなスピーカー音が直接室内に流れる。)

 

 

・・・・・今後とも日常生活の中で不要不急の外出を控え、

人の密集場所、人と人との密着する集会、

換気の悪い密閉空間を避けて下さい。

 

また、

感染が広がっている地域に行き来することはできるだけ避け、

感染が収まるまで人に会う事を避けてください。

7名の感染者はいずれも感染地域に出かけられた方です。

 

日常生活で人と会う事を、7割から8割に減らしてください。

危機感を持って油断なく対応してください。

市民の皆様お一人お一人の行動が、

家族や友人の命を守ることになります 。

しばらくの間、

窮屈な日々を送ることになりますが、なにとぞ我慢して

この難局を乗り越えて下さいますよう。よろしくお願い申し上げます。

(市長の大音量のスピーカ放送終わる)」

 

 

 

 

広報担当者

「こちらは広報富士宮でした。」

 

市長さんの大音量の放送はここのところ毎日、

昼と夕方の2回あります。

富士宮市民は心から注意して暮らす今日この頃です。

 

司会者

「富士宮市も、日本も、世界も、新型コロナウイルスの感染拡大で

不安な毎日が続きますね。

私たちも感染拡大を阻止する戦いですね。これは戦争ですね。

注意深く生活しましょう。」

 

保護者4

「話を続けましょうよ。

教授のことを知りたいというところから、再開してください。」

 

 

教授

「早速、コロナと大地保育のあり方をお話をしたいのですが、

その前に私のことを知りたいと言うご要望ですね。

 

私も『私の経歴』を話しておきたいので、

今日は教育小説を書き始める前のプロローグとして、

自己紹介を少し長めですがお話させてくださいね。」

 

教授の「私の経履」の話が始まる。

 

「私はね。昭和13年 1938年 のトラ年生まれ。

今年、満81歳になります。

 

 

2006年に富士宮市の委託を受けて、

民営化大中里保育園(現在:大中里こども園)の経営に当たりました。

開園以来14年の歳月が流れました。

2020年3月31日の春風を感じつつ現場を退職しました。

 

さて、これからどう生きるか。

そこで教育小説家になりますと宣言しました。」

 

司会者

「なぜそんなことを言い出すのですか。」

 

教授

「退職すると、 『終った人』とか。 『趣味の盆栽で生きがいを』とか、

 『のんびり隠居しています』と取られるのがいやなのです。

 

 

『教育小説家になります』は、

  81歳からの生涯現役のお仕事です。  

大中里こども園の退職ではありません。

教育小説家に転職。 生涯現役の再就職です。」

         

司会者

「この場にいる100人ほどの皆さんから、

まず初めに作者としての人柄を聞き知りたい。

 

教育小説はフィクションで、ドキュメンタリー風ということですから、

 

 

そのドキュメントの基となる 主人公の 教授について、

わかりやすく箇条書き風にお聞かせてください。」

 

 

 

会場はザワめいているので 司会者は手をポンポンと打って、

 

「では、改めまして塩川寿平さんの経歴のお話を始めてください。」

 

 

 

教授本人が話し始める。

 

「① 私の名前は寿平(ジュヘイ)ですが、

子どもたちは私のことをジュッペちゃんと呼んでくれます。

  ジュッペちゃんは2019年度で大中里こども園

(旧・大中里保育園)を退職しました。

 

大中里保育園は2006年の民営化により、

社会福祉法人柿ノ木会が

富士宮市より委託を受けてから2020年度には

15年目を迎えようとしています。

 

 思えば初代園長塩川寿平(7年間)

+名誉園長・嘱託(7年間)= 14年間。

 

そして妻の塩川恵美子(副園長7年間

+ 2代目園長7年間) =14年間。

夫婦二人三脚で同法人の創立理念「大地保育の哲学』、

そして、

就業規則の『大地保育』を忠実に継承し、

2019年度で152名の卒園児を育てました。

 

 そしてこの15年目の2020年4月1日から3代目園長に引き継がれる

記念すべき年を迎えることとなり感無量です。

 

②さて、私はこれからどう生きるか。  

ジュッペちゃんは生涯現役の教育小説家を志します。

 

  実は私は昭和28(1953)年創立の

野中保育園(現野中こども園)の

法人理事と評議員を長いあいだ勤め、

大地保育の経営に尽力して参りました。

 

 

姉妹園の野中こども園は今年で67年の歴史を誇り、

なんと卒園児は3,000名余を小学校に送り、

社会貢献してまいりました。

 

 私の父塩川寿介は野中保育園の創立者で、

母塩川豊子は『大地保育哲学』の創始者です。

 

 

満州からの引き揚げ者の父と母が戦後間もなく、

地主(旧庄屋「東の塩川本家」)の 祖父塩川信太郎から相続した、

米蔵と田んぼ(大地)と、

果樹園(柿の木)で野中保育園を始めました。

 

③創立当初、保母さん不足で家族全員で手伝いました。

私が富士宮市立第3中学校の14歳の時で、

子どもたちに紙芝居を読みました。

 

静岡県立富士高等学校の剣道部で2段になった私は、

ボランティア保父となって、

子どもたちとチャンバラをして遊びました。

 

また、

開園間もない年のクリスマスイブにはサンタクロースになって、

リヤカーにプレゼントを積んで、

40名の園児のお家を1軒1軒、

母塩川豊子と姉の塩川寿々子と保母さんとプレゼントを

持って回りました。

 

 

ある園児のおばあさんは玄関で出迎えてくれて、

『西洋の神様が来てくれた。

ありがたい。ありがたい。これでもういつ死んでもいい』と。

サンタクロースの私に手を合わせて出迎えてくれました。

敗戦後間もない歳月の頃で、

田舎ではサンタクロースなど見たことがありませんでしたから。

 

そして、

おばあさんは『朝からお寿司を作って待ってただに。

座敷に上がって、ひとくち 食べてってくりょ』と。

 

私が高等学校の2年生の時のことです。

そのお寿司の味は今も忘れられません。

 

  ④今思えば、父と母は私財を使っての慈善活動家であり、

社会派の戦後復興にかけた篤志家でした。

現在は、野中保育園発祥の田んぼ(大地保育の語源)と、

果樹園(社会福祉法人柿ノ木会の語源)は寄付されて、

社会福祉法人の所有地となっています。

 

⑤なお、母塩川豊子は私の保育学の師匠であり、

私は自由でのびのび育てる大地保育の教えを受けました。

 

苦労をものともせず、

楽しそうに献身する母の姿を見て育った私は、

静岡県立富士高等学校の卒業の時を迎え、

進学先は占領下のGHQと厚生省の肝いりで作られた、

日本社会事業大学を選びました。

 

 

 

 

さらに、大学院への進学は、

神戸の貧民街で慈善事業を行い、後に日本の生活協同組合運動に

大きな役割を果たした賀川豊彦牧師が教授を務めた、

明治学院大学大学院社会福祉学専攻コースに学び、

私は社会学修士となりました。

 

 

 

 

 

 そして、母の創始した大地保育の実践と理論を、

『子どもの最善の利益の追求(国連、児童憲章)』と、

『自由保育=子ども主体の保育(保育所保育指針、厚生労働省)』と、

『環境による教育(幼稚園教育要領、文部科学省)』とに、

合致した学術論文として『大地保育』を普遍的な

保育理論に構築すべく、   研究者となり、大学教授となりました。

 

 

 篤志家の父と、大地保育の創始者の母、

そして共に大地保育を育てた保護者・園児と教職員、

支援してくださった地域の方々の保育に関わる姿を

ずっと見続けて育った私は、

『67年間の大地保育の歴史』を後世に語り伝える

  教育小説を書き残す 事は、

私の使命であると思うようになりました。

 

⑥今、私は満81歳となり、大中里こども園の現場を去り、

2020年4月1日からフリーの身となりました。

 

 

これからは生涯現役の教育小説家を志し、

短編を沢山書いて、それを集大成して、

『大地保育ものがたり』を世に出したいのです。

 

 

 

 お手本は「 二十四の瞳(坪井栄)初版1952年』

『兎の眼(灰谷健二郎)初版1974年』

『窓ぎわのトットちゃん(黒柳徹子)初版1981年』の3冊です。

 

 

 時代ごとに私の大地保育魂にギアを入れてくれた

  文学であり、 教育小説です。

 

 

 

そして、

これほど世論に大きな影響を与え、教育のあり方について

人々を啓発した教育小説はないのではないかと思います。

 

⑦まず、私は本格的に書き始める準備段階として、

私の主催する大地教育研究所で、

この3冊の教育小説を輪読し合う小さな文学サークルを始めます。

 

コーヒーを飲んだりクッキーを食べたりしながら、

ひたすら3冊の文学書を何回も読み返します。

 

これからの私には時間がたっぷりありますのでそのようにします。

文学サークルの仲間は大地保育に 賛同して下さる方々を募ります。

 

⑧ その後に、

この3冊のどの文脈に感動したかを語り合い 感想文をまとめます。

同時に姉妹園の野中こども園と、大中里こども園の創立以来、

大地保育67年間に発表された新聞・雑誌・テレビ放送

・随筆・著作・保育専門誌

・論文・映画・ VTR等の既に文章化された 大地保育に関する

資料の すべてを俯瞰し、 評価の高い部分と、

文学サークルの仲間が感動した部分をまとめて

大地保育の何が大切だったか。

保育内容の何を後世に語り伝えるべきか構想を練ります。

 

⑨練りあげた構想をもとに、ドキュメンタリー風フィクション教育小説

『大地保育ものがたり』の目次を作ります。

実際には書けるところから短編小説としてブログで発表を始めます。

 

 

本格的には、

 『理想的な教育の姿』を創作発表するものでフィクション小説になります。

日本の教育、世界の教育、未来の教育、大地保育100年後のあり方を、

学際的に想定しながらの

ドキュメンタリー風 フィクション教育小説

『(最終的な総括タイトル)大地保育ものがたり』を

  ブログで10年間ほど時間をかけて、

短編で連続的に発表してまとめます。

 

私が90歳になるまで継続して短編をたくさん創作発表いたします。

 

 

 

⑩なお、運よくどこかの出版社が取り上げてくれて本になったら、

続けて脚本を作りテレビドラマにします。

さらに、運が良ければNHKの朝ドラに取り上げていただき、

教育のあり方について世に一石を投じる所存です。

 

 

 

 東京発信ではなく、

地方発信の宮沢賢治は 岩手から『雨ニモマケズ』や、

文学や絵本で、 世論を喚起し、

今日に至るまで時代を超えて啓発は続いています。

 

私も富士宮発信の短編を綴りながら

『大地保育ものがたり』で、

地方から『国の教育』に一石を投じたいと考えています。

 

⑪大地保育の実際は、

自然環境と関わる『遊び』と『生活』から生まれる、

ハプニングとユーモアの精神を創造的に受容する、

生の人間の匂いがする繊細で、かつワイルドな保育です。

 

 

 富士宮市野中の田んぼ=大地を土台に創造された保育史であり、

『子どもの最善の利益の追求(国連児童憲章)』と、

『自由保育=子ども主体の保育(保育所保育指針)』と、

『環境による教育(幼稚園教育要領)』とに基づく、

子どもの自由精神のよる個性と意欲を最重視した生き生き保育です。

 

 

 

 大地保育の創始者塩川豊子の好きな言葉、

『ハプニングと創造の保育』

『日々が新たにユーモアあふれる生活』は、

生きがいを生み出す力となり、

子どもにとっても大人にとっても、

意識して身につけなければならない大切な教えで、

大地保育哲学を優しい言葉で表現してくれています。

 

⑫大地保育の名称を最初に使ったのは塩川豊子(1915~1999年)で、

『汲みつくすことのできない宝庫である大自然に挑む中で、

子どもたちが育てられていく保育』と定義しました。

 

 また、野中こども園・大中里こども園の就業規則

『(第1条の3)「大地保育」を守り発展させることを目的とする 』

『(第2条)職員は、社会福祉事業の発展につとめ、

      大地保育を推進しなければならない』

『(第15条:大地保育の理念)保育の目標

「何をするにも、 自分で開拓できる子」』と 明記されています。

 

⑬敗戦から7年目に開園した野中保育園は、

新生日本の民主主義と、農村全体で子どもを見守る

ムラ社会のモラルの高さに支えられながら、

食料増産に汗する農民と一体化する保育園に、

保護者も、保育者も喜びを感じながらワンチームで

朝から晩までの長時間保育に従事しました。

 

 そして、

『米づくりの保育』『アヒルや山羊やブタと共存する保育』

『どろんこ保育』等、農村生活を色濃く取り入れた

特色ある『大地保育』は、

  評判を呼び全国から見学者が多く 訪れるようになり、

野中保育園の名前は広く日本中に知られるようになりました。

 

⑭広まる見学の要望を受け入れて、

大地教育研究所を発足させて塩川寿平が所長となり、

野中保育園の園長塩川豊子の基調講演と、所長の講義。

そして、

  大地保育を実際を見学し、その流れでの 3分科会 の発表。  

(第1分科会)乳児保育『探索活動』

(第2分科会)幼児保育『どろんこ』

(第3分科会)幼児保育『造形活動』の内容で、

  23年間にわたって、 毎年 200人規模で、

  通算約4,000名余の受講生をお迎えして、

2泊3日の『大地保育夏期セミナー』を主宰しました。

 

 延べ4,000人余の全国の幼稚園や保育園の先生、

そして大学などの研究者と 共に、

『実践と理論を一致させる勉強会』に 力を入れました。

 

⑮大地保育の質の向上のためには、

 

『自由保育・障害児保育理論

   (平井信義・石井哲夫等に学ぶ)』

 

 

『保育と創造美育教育理論

   (久保貞次郎等と全国創美セミナーや絵画展に学ぶ)』

 

 

『受容と精神解放の理論

   (ASニールと霜田静志等に学ぶ)』

 

 

『体験学習の理論と実践

    ( Jデューイと堀真一郎等に学ぶ)』 などの、

 

勉強会を持ち全教職員で真摯に学び続けました。

 

⑯のびのびと遊べる広い園庭を保障し、

さらに園外保育を適時取り入れた大自然の体験も、

大地保育では必要と考えて取り入れてきました。

 

このように豊かな保育環境を保障することを通して、

子どもが 自発的に、主体的に『環境』に挑戦し、

 自ら 『個性』と『能力』を引き出していく、

理想の大地保育を創造していったのです。

 

⑰塩川寿平の大地保育5部作

 

『どろんこ保育(単著)』

 

『名のない遊び(単著)』

 

『大地保育環境論(単著)=こども環境学会論文賞受賞作品』

 

『コーナーのないコーナーの保育(塩川豊子・塩川寿平他共著)』

 

『子どもを伸ばす保育環境(森上史朗・塩川寿平他共著)』等。

 

以上は、 子どもの発達過程を受容して、

『自己肯定感情』や『自尊心』や

『認知能力と非認知能力』等を 育む保育内容として、

AIやICT時代にも必要な大地保育です。

 

⑱人間教育の不易・流行について、

 大地保育は『不易(変わらないもの)』を学び大事にします。

『感情こそ人間の証し』であり、『人間の本質』です。

感情を大切にする全人格教育、

特にアニミズムの発達過程を生きる、 自己中心期の乳幼児には、

『受容と感情解放の教育』と、

『体験学習』と、

『無意識も含む情緒の安定』は『不易』です。

 

 また同時に、

大地保育は『流行(変わるもの)』を学びます。

社会や大人たちは、生活の必要性から AIやICTを取り入れた

新しい生活を余儀なくされます。

 

 

新型コロナウイルスの状況下の保育も考えなければなりません。

 

保育は、流行の社会とも共にあります。

乳幼児の発達にとって流行のメリットとデメリットを真摯に照査し、

どのように取り入れていくべきか検証しながら、

  流行を取り入れる事も 大地保育の大切な姿勢です。

 

⑲私は物心ついてから満81歳になる今日まで、

大地保育一筋に生きてきました。

私の体のどこを切っても大地保育の血が流れます。

 

 父と母の築いた大地保育の弟子として、

私は大地保育研究所所長として23年間

『大地保育夏期セミナー』を主宰してきました。

 

 

全国から参加していただいた多くの保育者と、

また大学で教鞭をとった50年間余の教え子との

交流を大切にしながら、

全国の大地保育を支持してくださる同志のみなさんと連携しながら、

私は生涯現役の保育研究者として

ドキュメンタリー風 フィクション教育小説

  『大地保育ものがたり』を 啓上し、

  理想の大地保育を国内外に啓発していきたいと思います。」

 

司会者

「教授自身の伝えたい事柄を、履歴書風に経歴を踏んで、

わかりやすく述べて頂きました。 ありがとうございます。」

 

保護者代表

「教授の満81年の人生と、大地保育の経験を通して、

新型コロナウィルスとも戦う 『大地保育ものがたり』を

これから書き上げる と言う計画に もろ手を上げて賛同もし、応援もします。

 

 

お話を聞いて 教授の蛮勇とも思えた、

『教育小説家になります』の 熱き宣言に納得しました。

 

これからは会場の皆さんとともに、

教授が日々の発表される短編を楽しみにしております。

有難う御座いました。」 (拍手)