随筆投稿:

私は教育小説家になります

 

私は 1938(昭和13)年生まれで81歳になります。

 

2006年に社会福祉法人柿ノ木会が富士宮市の委託を受けて、

 

私は民営化大中里保育園(現大中里こども園)の初代園長になりました。

 

今年で14年の歳月が流れ152名の卒園児が巣立ちます。

 

私はこの春に現場を去ります。

 

さてこれからどう生きる。引退ではありません。

 

教育小説家に転職。生涯現役の再就職です。

 

実は私 は1953年創立の野中保育園(現野中こども園) と長い関わりがあります。

 

  この『親なる同法人姉妹園』は今年で67年の歴史があり、

 

卒園児は3,000名余の社会貢献をしてきました。

 

  私の父塩川寿介は『野中保育園』の創立者で、

 

母塩川豊子は『大地保育』の創始者です。

 

  満州からの引揚 者の父と母が戦後間もな く、

 

地主(旧庄屋「東の塩川本家」)の祖父塩川信太郎から相続した、

 

米蔵と田んぼ(大地)と果樹園 (柿の木)で野中保育園を始めました。

 

 

  保母のなり 手の いない時代。家族総出で保育 し、

 

  私は3中 生で放課後 に紙芝居をしました。

 

富士高生の時、剣道2段の私は チャンバラ遊びの保父をしました。

 

また12月24日のクリスマスイブの日には サンタクロースになって、

 

リヤ カーにプレゼントを積んで園児の家を1軒1軒、

 

母塩川豊子と姉寿々子と回り ました。

 

  今思えば、父と母は私財を使っての慈善活動家で あり、

 

社会派の敗 戦後復興にかけた篤志家でした。

 

現在は野中保育園発祥の田んぼ(大地保育の語源)と、

 

果樹園(法人柿ノ 木の語源)は寄付され て法人の所有となっています。

 

私にとって母は 保育学の師匠で、

 

自由でのびのび育てる大地保育を教えてくれ ました。

 

塩川豊子(1915~1999)は『汲みつくすことのできない宝庫

 

である大自然に挑む中で、子どもたちが育てられていく保育』、

 

と 定義しました。

 

苦労をものともせず、楽しそう に献身する母の姿を見て育った私は、

 

大学進学先 に日本社会事業大学児童福祉学科を選 び、

 

さらに明治 学院大学大学院社 会福祉学専攻コー スを選びました。

 

  母の創始した大地保育の実践を、

 

『子どもの最善の利益を守る』普遍的な保育学に昇華しなければと、

 

研究者となり、大学教師となりました。

 

  父と母、そして共に大地保育を育てくれた保護者と職員、

 

地域の方々の姿 、『67年間の両園の大地保育の歴史』を

 

後世に語り伝える事は、私の使命 と思うようになりま した。

 

お手本は「 二十四の瞳(壺井栄)」

 

      「兎の眼 (灰谷健二郎)」

 

      「窓ぎわのトットちゃん(黒柳徹子)」の3冊です。

 

  時代ごと に私の大地保育魂にギア を入れてくれた文学であり

 

教育小説です。

 

そして、これほど教育のあり方について国民全体に大きな影響を与え、

 

世論を啓発した教育文学はありません。

 

  私の 発 表は塩川寿平のブログ (https://ameblo.jp./juhei79)で

 

コツコツと発表します。

 

  宮沢賢治は地方の盛岡から『雨ニモマケズ』 で。

 

私も富士宮発信の『大地保育ものがたり』で、

 

  地方から『国の教育』に一石を投じたいと考えています。

                      

 塩川寿平 2020年3月吉日