ハロー。じゅっぺちゃんでーす。

こども環境アドバイザー 79歳です。

 

https://ameblo.jp/juhei79/entry-12398014830.html

⇧今日は 前回の つづき!

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3.人的環境と人称人格構造論
(塩川仮説)
*乳幼児期に必要な人的環境


私は現在、大中里保育園の園長をしている。

 

『大地保育=自由保育=子ども主体の保育』の実践に取り組んでいるが、職員一同の二つの矛盾する悩みを申し上げたい。

 

決して充分とは言えない環境のなかで(紙面の都合上詳しい園の環境については割愛する。)

 

理想的な保育を求めて、可能な限り子どもの自主性・主体性・創造性を育む大地保育の努力を繰り広げている。


*保育実践の二つの矛盾と悩み


第1に、私たちは発達過程を大切にしている。

 

赤ちゃんには赤ちゃんの遊びと生活を保障する。

 

1歳児は1歳児として生きる。・・・5歳児は5歳児の遊びと生活を保障する。

 

各年齢ごとの成長の特徴を受容する保育をしたい。


第2に遊び場が300坪という狭さの中で一緒に遊ぶ0歳児から5歳児の発達差から来る利害的な矛盾である。


*5歳児と1歳児の矛盾
6月のこと、5歳児がバケツで稲の苗を植えた。

 

そこに遊びに来た1歳児が植えたばかりの稲の苗を次々と引き抜いて行った。

 

1歳児の楽しそうなこと、大発見・自主的・主体的なこの遊びを受容したい。この矛盾をどうするか。

 


*3歳児が花を落とした
3歳児の女の子がきれいな花を見つけて落とし、集めて袋に入れ、家へお土産に持って帰るのだという実は移植して3年目の若い細いサルスベリの木。

 

今年初めて花がいっぱい咲いた。

 

彼女は満面の笑みを浮かべて細い木を揺すり続けた。

 

サルスベリの花は雨のようにぱらぱらと落ちた。

 

地面は花の絨毯になった。

 

子どもの大発見の喜びを受容したい。この矛盾をどうするか。

 


*4歳児がプールに落とされた


8月の暑い日。プールで歓声を上げる子ども達。

 

見ていて楽しい風景だが、4歳児同士の男の子がちょっとした押し合いになり、あっという間に押されてプールサイドに前歯をぶつけた。同じ時期、たて続けに同じような怪我があった。

 

2件とも病院にいかなければならなかった。

 

当然のように、かなり強い禁止のルールを作らなければならない。

 

しかしながら「絶対になくせと言われれば」このようなことは絶対になくすことができない。

 

保育士はいつでも絶対に目を離すなとは言われるが、この矛盾をどうするか。

 


*保育園で多い悩み
全国的に1歳児から2歳児に多い悩みには、噛みつく、髪の毛を引っ張る、唾をかける、何度言っても靴のまま保育室に入ってくる。こうした悩みは尽きない。

*一人称人格時代の自己中心性
保育園の特色は、一人称人格時代の自己中心性、アニミズムの遊びを受容することにある。

 

発達過程の姿をありのまま受け入れ、乳幼児期の人権尊重という視点から、未発達部分の二人称人格(主に対人認知)や三人称人格(主に組織の一員)を必要とする生活指導面や、養護面の生活身辺自立は保育士が乳幼児に成り代わって補助自我になってカバーしている。


乳幼児と保育士の人格的行為は、混然一体となって極めて複雑に心と体の成長を示す分裂と拡大を続けている。

 

更に成長は時間と共に複雑に進退を繰り返しつつ、向上傾向にうごめきながら保育(=遊びと生活)によってもたらされている。

 

従って保育の決定権は大人・保育士にあり、保育という行為の責任も保育士にある。

 

また乳幼児における自由保育は、最終的に保育士の裁量権によって自由の量と質が決定される。


専門性の水準と向上については、専門家に必然的に発生する研修権があり、保育士は園長を指導者とした専門グループである仲間の保育士と職員会議やさまざまな研修を通して恒常的に研修が要求される。

 

つまり常日頃から研修を受ける権利が生ずるのである。

 


*私は大学の講義で学生に伝えるとき、「H2+O=水」を譬えに『乳幼児+保育士=水=保育』という構造で説明してきた。

 

従ってここでは、乳幼児と保育士が一人の人間であり、『混然一体の人格』ということになる。

 

保育実践の現場にあっては、「一人の園児」あるいは「複数の園児と保育士」は一つの魂(=化合物)になっている。

 

それは「創造された法的人格」ということである。この魂の新たな主体者である保育士に自由と責任が伴ってくる。
 

 

*矛盾事例に対してどのように責任を取るのか。
自由(子ども主体の保育)と放任(破壊や怪我等を含む)の論点に対し、保護者はどのような処遇技術で責任をとったら良いかを明らかにすることを目的とする。


*自由保育は放任保育ではないか。
自由保育は放任保育でもなく管理保育でもない。問題なのは、管理する保育が広がりつつあることだ。

この状況は、さまざまな保育分野で乳幼児を不幸にしている。

 

乳幼児を安全に管理するという論点から保育環境の弱体化が目に見えて進められている。

 

まず動く遊具の撤去である。遊動円木・メリーゴーランド・シーソー等である。

 

都市公園では最近普通のブランコさえ撤去されているが、保育園や幼稚園でも同様である。

 

今や自由保育を実施する必須条件である保育環境に対して事故防止として過剰な安全管理見直しが始まり、物的環境の砂漠化が進んでいる。同時に人的環境の見直しも保育を困難にしている。

 

①汚い②危険③みっともない④暗い⑤散らかっている⑥早くしなさい⑦下手だねえ⑧何の役に立たない。

 

この管理用語の乱用により子ども主体の保育=自由保育は、様々な遊びと生活の中で、縮小の一途をたどっている。

 

この状況から子どもが不幸になる、何とかしなければと。

 

そこで私は、子どもが幸せになるためにテーマのような塩川仮説を発表することにした。

 


*就学前の園児は、心身ともに未成熟で自治能力は発達途上にある。

 

当然、園児だけの遊びと生活の自由はない。

 


都市公園から動く遊具が撤去されていったのは、責任をとる者がそばについていないという前提である。

 

私が明らかにしたい責任の取り方は、家庭にあっては保護者であり、保育園、幼稚園にあっては保護・養育する立場にある大人が総括的にすべての責任を取る保育が『自由保育=子ども主体の保育』といえる。

 

子どもの自治能力が未発達なので、園児の安全をほごしなければならない。

 


☆塩川仮説
=乳幼児の発達と人称人格構造論について
塩川は、人格の育つ過程の1人称・2人称・3人称に注目した。

 

園児の「遊び」と「生活」を人格による分析と、テーマのように命名、分類した。


*1人称人格とは、自己中心的人格・主観的人格・アニミズム人格・象徴思考人格・非自然科学人格等である。

 

「私が一番」「私が先」「私のもの」「絵を 描く場合にも他人の評価を意識せずに描く」対人認知が未成熟で相手の子に噛みついたり、髪の毛を掴んで引っ張ったり、興味の赴くままに名のない遊びをしたりする。


*2人称人格とは、対人認知のことであり、相手の立場に立って考えられるようになる。

 

夫婦愛、兄弟姉妹、家族愛、恋愛、友情等に見られる私的関係の人格である。

 

保育場面の行動様式では、かわりばんこ、順番、待っててね、貸してあげる、迷惑がわかる、人の嫌がることをしないで相手の立場に立って考えるようになってくる。

 

こうした人格を育て乍ら、4~5人の小集団で自治による遊びと生活をしどうしている。年長児になるとこうしたことが出来るようになり(2 人称人格行動の完成)やがて卒園を迎え、小学校へ進学していく。


*3 人称人格とは、組織の一員としてメンバーシップの行動の取れる人格のことである。


ボランティア精神、自己犠牲の精神、具体的には人類愛、祖国愛、郷土愛、企業愛、母校愛である。

 

そしてその使命や仕事の重要さを充分理解し、喜びを感じて行える人格である。この3 人称人格は、小学校高学年から中学に本格化する人格である。『自由教育=自治による教育』が本格化するのは3 人称の発達のこの頃である。

 

「塩川仮説の人格構造論による教育論」は1 人称人格、2 人称人格、3 人称人格へと三つの人格バランスのとれる人間を目指していく教育と考えている。


*次に1 日24 時間の標準的な人称人格構造のバランスについて述べたい。


1 年を平均して1 日を3 等分(24時間÷3=8時間)し、過ごせるとき、大人として自立出来る。

 

こうした教育の年月は20年である。

 

日本では20歳を自立の時として成人式をする。

 

親はこの20年間は教育の責任をとることになる。
 

*塩川仮説からとらえる園児と保育者の関係性について


人称人格構造論から明らかになったことは、1人称人格の発達過程にある乳幼児に「破壊してしまったことに対する責任」および「保育中の怪我や事故の責任」を負わせることはできない。


ではなぜ、乳幼児に責任がないのか、それでは保育者になぜ責任があるのか、明らかにしなければならない。

 

保育者が責任をとらなければならないということは、『保育実践という両者の関係性』の中から生じてくる。


『H2+O=水』のたとえのとおり、『乳幼児+保育者=水=保育』という構造で私は考えている。

乳幼児の特性から来る両者の関係性は保育実践の場にあっては、『生活も遊びも渾然一体の塊=化合物』となっている。

 

この新たに誕生した『創造的化合物人格』の核は、大人である保育者である。

 

当然、保育者がすべての責任を持つことになる。

 

したがって、乳幼児期における自由保育の質と量の裁量権も、最終的には保育者の責任である。

 

もちろん「こども主体の保育」の人権上の主人公は、園児である。

 

しかしながら1人称人格という特性から園児が事故や怪我を起こさないように保育者が配慮するのであり、保育の質と量の裁量権は、大人である保育者に任されなければ責任を取ることはできないからである。

 


*冒頭にあげた四つの矛盾事例にたいする責任の取り方
【矛盾事例1】
5歳児のバケツの田植えの苗を1歳児が引き抜く矛盾
【矛盾事例2】
3歳児がサルスベリの幼木を揺らして花を落とす矛盾
【矛盾事例3】
4歳児がプールに落とされ、怪我をしてしまった矛盾
【矛盾事例4】
噛みつく・髪の毛を引っ張る・つばをかける・靴のまま保育室に入る等の矛盾。人権上の主人公はあくまでも園児であるが、保育者には『創造的化合物人格』の核として自由保育の質と量の裁量権を持つ。言い換えるならば保育者は責任の採れる範囲で保育を行うということである。その目安は次の五つの要素の裁量である。


①いつ=一つひとつの保育にかかわる時間の裁量


②どこで=一つひとつの保育にかかわる場所の裁量


③だれが=一つひとつの保育にかかわる園児数と保育者数の裁量


④なにを=一つひとつの保育内容の裁量


⑤どのように=園児の側は「生活」と「遊び」の一つひとつの行為を園児は思う通りに個性的に自由に活動する。一方、保育者の側は、何が起こるか分からないので、しっかりと見守り責任を持つ。

 

 


*結論として、自由教育とは園児の側から見る自由のことで、園児の活動の量と質を可能な限り拡大しようとする保育です。

 

したがって『想像的化合物人格』の核である保育者には、園児が個性と能力の限界に挑戦できるように見守る仕事があるのみです。

 

保育者は自らの五感を常に鍛えて、園児の特性と能力にあった『遊びと生活の保育』を保障します。


そして園児の適正な発達の責任をとるのです。保育者は自分が責任のとれる保育の質と量の範囲内で職務を遂行します。


保育者は自らが責任のとれない保育をしてはなりません。

 

自由保育とは決して放任保育ではありません。

 

両者の関係性の中で、核である保育者が責任をとる保育を自由保育といいます。

 

 

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塩川 寿平(1938年生まれ)


   大地教育研究所所長
   大中里こども園名誉園長
   元静岡県立大学教授


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活動:こども環境学会アドバイザー
    愛育心理研究所インストラクター

著書:「名のない遊び」「コーナーのないコーナーの保育」 
    「どろんこ保育」「大地保育環境論」等   
(出版社 フレーベル館=電子書籍化も有ります)

 

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    ジュッペちゃんの保育のこころ
子どもを大切にするということは人としてであって、
私たちの"大地保育"は大人も童心人となって、
子どもと共に独立国(子どもの園)を創造するということ
ではないかと思います。 
いつでも・どこでも・いつまでも子ども心を忘れずに
『名のない遊び』等を大切にしたいと思います。

 

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勤務先:大中里こども園
静岡県富士宮市大中里837
姉妹園野中こども園(旧野中保育園 創立1953年)

 

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社会福祉法人柿ノ木会「大中里保育園」は、
平成30年度から
幼保連携型認定こども園に移行し、
施設名称を「大中里こども園」と改めました。
今後ともよろしくお願いいたします。

 

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