どう考えるべきだろう。
華やかな開会式、金メダルを目指して戦う選手達の美しさ、 負けた選手の悔し涙に人は動かされる。
一方で、国同士・人同士が争い続け、オリンピックどころでは無い国や地域が存在している。
ウクライナ・ロシア、イスラエル・パレスチナなどは特に。
彼らはオリンピックをどう見るのか。これもまた部分的には気持ちの分断を起こす。
地震や台風の被害で生活再建に向けて他の事は考えられない人々もあちこちにいる。
一方でそんな人達を少しでもスポーツで勇気づけたいという気持ちも分かる。
世界はどうなるのだろうか。
オリンピックは政治や宗教を超えて純粋に戦う事に意義深さがあるはずだが、実際はどうだろうか。
一般的には審判という人が介在する競技において、微妙な判定はつきもの。特に、トップ選手同士となると発生しやすい。
早くも柔道で審判の待て、がかかったにも拘わらず絞め技を続行し、結果相手選手が落ちてしまった。
落ちたことで連動して審判は一本を宣告。待て、の後の絞め技続行も問題なのに、その次の落ちたことを一本としてしまうなど複雑化してしまう。当の選手は会場の声援に紛れて審判の声が聞こえなかったと発言。
相手選手は抗議の為に審判に訴えている最中だったため、勝ち名乗りを上げた選手からの握手を拒否する結果となった。
握手の拒否は礼に反するという批判の一方、抗議が完了していない以上、試合そのものが終わっていない為礼をするのはその後という考えもあり、この時点で礼をし、握手をするとこの判定を認めたこととなり、双方の理由もそれなりにある。
トップの柔道選手なら、相手が落ちたことぐらい分からないものだろうか?
個人的には分からないはずもなく(明らかに力が無くなるわけで)、続行することは卑劣と感じる。
国を背負い金メダルを目指す人間は最高潮にアドレナリンが出ている事も理解出来る。
こんな状況を子どもたちにどのように伝え、教育するべきなのだろうか。
先生は答えを言わず、自分達で考えなさい、考える事が大事、といいガチだけが、本当にそうだろうか。
究極的には定量的なものでしか競う上での不公平は拭えないと思う。
新競技が次々生まれるが、益々わかりにくいものもある。
あまり何も考えずに楽しむのが吉なのかもしれない。