(最終更新:2017年6月)

僕はインディカーはハイライトしか見ない人間だが、突然インディカーのオーバルが減少した理由についてきちんと知りたい衝動に駆られたので、色々調べながらやってみた。

※本記事では『インディカー』より『チャンプカー』を優先的に用いることにする。『チャンプカー』は「アメリカのチャンピオンシップを争うマシン」のことである。『インディカー』とは文字通り「インディ500を走るマシン」の意味。

つまり年間を通してのタイトル争いをしている現在のインディカーは、同時にチャンプカーでもある。ちなみに現在の運営団体の名称は『INDYCAR』であって、IRLではないので注意。
※ロード&ストリートは、オーバルとの対比する場合は『ロード』の一言でまとめる。


0.インディカーとオーバルの関係


Q.突然ですが問題
アメリカンモータースポーツでは、フォーミュラカーのことを「オープンホイール」と呼びます。
というのはwikiにも書かれているので知ってる人も多いでしょう。ではなぜアメリカでは呼び方が違うのでしょうか?


正解は下の方。







A.答え
チャンプカー(インディカー)はかつてフォーミュラカーではなく、スプリントカーやミジェットカーのようなダートオーバルで争うレースだったからです。※1

 

スプリントカー。写真のようなウィングが乗っかっているのが有名だが、ウィングがないスプリントカーもある。搭載エンジンはV8で、800~900馬力を誇る。オーストラリアやニュージーランド、南アメリカにも存在する。http://www.woosprint.com/photos/956-070911-world-of-outlaws-sprint-car-series-at-beaver-dam-raceway
 

ミジェットカー。ミジェットは「小人」の意味。車体は小さいが、最大で400近い馬力を誇る(F3は200馬力程度)。日本でも、もてぎで開催されていたことがある。 http://www.motionvideo.co.nz/motorsport-articles/race-cars/80-midget-car-speedway.htmlより。

 

どちらもタイヤが剥き出しで、字面通り「オープンホイール」だが、明らかに我々の想像する「フォーミュラ」カーではないことがおわかりいただけるだろう。元々はこうしたダートオーバルレースの延長にチャンプカーがあったというわけだ。
かつてはAJフォイトやマリオ・アンドレッティ、アル・アンサーSr.のような往年のチャンプカーのレジェンド達も、最初はダートオーバルレースで名を成して、それからチャンプカーへとステップアップしていった。そしてチャンプカー自体もまた、ダートオーバルで開催される国民的シリーズだった。

こう書くと、地方のミジェットカーやスプリントカーが発展してチャンプカーになったのかと思われそうだが、実際は逆。先に生まれたのはチャンプカーの方だ。

時系列順に並べると、
1905年、チャンプカー誕生。正式名称は「AAAナショナルモーターカーチャンピオンシップ」。AAAは日本で言うJAFにあたる。しかしレースの危険性が問題視され、この年のみの開催となる。

1909年、AAAの非公式ながらチャンプカーが復活。

1911年、500マイルレースとしてのインディアナポリスでのレースが初めて開催される。

1916年、AAAに公認され、チャンプカーが正式に復活。

1933年、ミジェットカーが誕生。チャンプカーを真似したマシンで、V8エンジンをV4に切って用いたという。スプリントカーは同時期に大型のミジェットカーとして登場したため、ウィングは無かった。

1960年代、ウィング付きスプリントカー登場。

 

ウィング無し(non-wing)スプリントカー。こうしてみるとミジェットカーにすごく似ているのがわかる。http://www.onedirt.com/news/bloomington-speedway-celebrates-90th-year-in-2013/ より。


1905年開催時のデータを見ると、全てがダートオーバルだ。これはサーキットのなかった当初は競馬場を用いて行われていたからだと言われている。しかし1909年にチャンプカーが復活したときはオーバルはインディアナポリスの一カ所のみで、残りは全てロード・ストリートだった。非公式の期間の多くを、インディアナポリス+α以外はロードレースという状況で過ごしていた。

オーバル人気に火がついたのは、1910~20年代にかけて登場した、ボードトラックと呼ばれる木の板でできた路面のオーバルトラックがきっかけ。1915年のインディ500観衆が60000人に対して3週間後のシカゴのボードトラックの観衆は80000人にも上ったとか、人口83000人のワシントン州タコマの小さくて離れたところにあるボードトラックに、35000人が見に行ったなんて話も伝わっている。レース参加者やファンを集めるため、賞金総額25000ドルという、当時としては破格の金額がプロモーターから支払われたこともあったという。
AAAの公式戦としてチャンプカーが復活したのは、この人気の高まりに押されてのモノと思われる。

このボードトラックはもともと自転車用で、安価に建設できるためアメリカ中で増殖した。しかし木の路面は維持コストが高く、多くが3年くらいで消えていった。また劣化した木片や原始的なタイヤ、あまり考えずに作られたハイバンクは危険度も高く、観客を巻き込む重大事故もたびたび発生した。しかしそれでもレースが面白くなるようなコース幅やバンク角、お客さんが楽しみやすい・見やすいグランドスタンドの構築、安全に関する設備・・・その他諸々のオーバルトラック構築のノウハウが、ボードトラックによって蓄積されていった。


ボードトラックは1930年代に衰退し、アメリカ四輪レース界は維持が簡単で安全度も高いダートオーバルへ舵を切っていく。その過程でミジェットカーやスプリントカーが登場した。

ミジェットカーが生まれた1930年代は、大恐慌の煽りでチャンプカーの開催数が最低2戦(!)まで落ち込んでいたので、そうした地域のオーバルレースがアメリカのモータースポーツ文化を支えていたようだ。

ちなみに1933年にロサンゼルスの高校のグランドで生まれたミジェットカーは、1935年にはスピードカーの名前でオーストラリアに渡っていたというのだから恐れ入る。そのとき生まれた選手権は、なんと2016年の今も「オーストラリアン・スピードカー・チャンピオンシップ」の名前で継続中なのだからさらにびっくりだ。

こうしてチャンプカー文化は、ボードトラックとダートの2つのオーバルによって練り上げられていった。

1.ダートオーバルが減少したUSAC時代
1955年にル・マンやインディ500で起きた重大事故を受けて、AAAはチャンプカー運営から撤退。これを引き継いだのは、翌年にインディアナポリス・モータースピードウェイの社長が設立したUSACだ。USACは同年、スプリントカー、ミジェットカー、ストックカーの運営も始めた。

第二次世界大戦が終結した後から、舗装されたオーバルが徐々に増えていく。1950年代はダートオーバルと舗装オーバルが二分していたが、ダートは年々減少し、1971年には一掃された。
これはおそらく郊外や田舎の公道でも舗装化が進んだことと、Can-Amのような舗装路でのスポーツカーレースが盛り上がりを見せていたことが影響していると推測される。舗装化は結果的に、ロードレース(主にF1やル・マン、Can-Am)のチームにもチャンプカー参戦を促した。

 

1960年の主流だった「インディロードスター」。当時フロントエンジンが当たり前と考えられており、ドライバーの後ろにエンジンを置く車は「Funny car」呼ばわりされたそうな。http://www.pbase.com/image/32876316 より。

 

チャンプカーからダートオーバルが消滅する直前のマシン。この時点でドライバーの後方にエンジンがある。http://www.indycar.com/Photos/gallery?g=1556より。

 


1972年を境に、今のフォーミュラのようなウィングがついたマシンが現れるようになった。それまでのフロントエンジンのチャンプカーは、シルバークラウン※3の名で別の選手権として残った。http://www.indycar.com/Photos/gallery?g=1573 より。


2.F1化路線を突っ走るCART時代
USAC時代のチャンプカーのプロモーションは、極めて凡庸だった。元々USACはインディアナポリス・モータースピードウェイの社長が創設した組織ということもあってか、インディ500の威光にあやかっているだけの、収入もまとまりも貧弱なシリーズだった。
この記事を書くにあたって参考にした文献には「20年間にわたる安定した人気の成長」の一方で、「貧弱なプロモーションや財政」と一見矛盾した2文が書かれているが、これはつまり人気はあってもそれをUSACが収益に繋げられなかったり、コストを削減するのが下手だった、ということだろう。シリーズは形だけでも成り立っていればいい、とにかくインディ500だ、みたいな感じで、実際インディ500以外のレースの賞金は極めて少なかったという。

そんなのんきな運営に危機感や不満を感じたチームオーナー達が、とって代わるべく1979年にCARTという組織を立ち上げる。同時期、USACの幹部が飛行機墜落で大勢亡くなったこともあり、最終的にCARTはチャンプカーの運営権を奪った。その代わりUSACはインディ500の主催権だけは死守した。

CARTとして生まれ変わったチャンプカーは、オーバル率を減らしてロードコース増加へと向かう。彼らがロードコースを増やした理由の書かれた文献を見つけることはできなかったが

①Can-AmやIMSA、F1などのロードレースが人気にあやかるため。
②欧州のフォーミュラカーチーム・コンストラクターの新規参入を促すため。
③CART設立に貢献したチームオーナーたちに、ロードレースをルーツに持つチームが多かったため(AAR、マクラーレンなど※2)。

などが推測できる。一つ確実に言えるのは、CARTでは収益を増やすためにあらゆる努力をしたのだろうということだ。その後CARTはロードレース化の過程で海外開催も増やして、ついにF1の脅威になるまで成長した。

さてロードレースが増えた結果、徐々に欧州・南米レーサーのチャンプカー流入も進む。1977年には上位まるまる40人アメリカ人ドライバーだったのが、1989年の上位20人中8人は外国人。その89年は、エマーソン・フィッティパルディが69年ぶりに外国人レーサーとして王者になった年でもある。そしてその後の5年後の1994年、ついに外国人レーサーは上位20人中11人と過半数を占めるまでになった。

残念なことに、欧州で無名だったレーサーがCARTで活躍することはあっても、逆にCART出身者がF1で活躍することは極めて少なかった。
決定的だったのは、CART王者マイケル・アンドレティがF1で惨憺たる結果で、反対にF1王者のナイジェル・マンセルがCART参戦初年度で王者になってしまったことだ。アンドレッティの不振にはF1にはHANSが無く首周りの安全に不安があったためなどが言われているが、なんにせよ世界中のレースファンにF1>>>>CARTを強く印象づけてしまった。

 

外国人フォーミュラドライバーが大挙してくる一方、アメリカの草レースで人気を誇るダートオーバルレーサーはどんどんCARTから離れていった。1990年、若くしてUSACスプリントカーの王者となったジェフ・ゴードンがNASCARを目指したことはまさにその象徴的出来事であった。F1化が進んだCARTは参戦費用も高騰したため、ゴードンは参戦費用を調達しきれなかったのだ。そして何より、1989年にNASCARウィンストンカップ(現在のスプリントカップ)の全戦TV放送が開始され、NASCARが急激に成長していた時期だったのも影響したかもしれない。

ロード・トゥ・インディ(アメリカの下位フォーミュラ)が整備されたのもCARTの時代だ。1990年にはUS. F2000、翌年にはプロ・マツダとインディライツが誕生している。ミジェットカーやスプリントカーがステップアップカテゴリとして機能しなくなり始め、チャンプカーにも下位フォーミュラが必要になったわけだ。

3.CARTとIRLの分裂
ここからの話はよそでもいっぱい書かれているから知っている方も多いだろうし、語ることも少ないのでサラッと流していく。
欧州路線・外国人大活躍の現状とCARTの不公平とも言える運営に不満を持ったインディアナポリス・モータースピードウェイの社長が、1992年に『インディカー』の商標権を取得。1996年にオーバル一本を旗印としたインディの名を冠するIRLが誕生、チャンプカーを冠するCARTと袂を分かった。

4.統合、そして現在
当初IRLは年間3戦のみで、年間15戦以上を誇るCARTが圧倒的に優勢であった。しかし、

①インディ500という超ビッグレースを持たないハンデがあった。
②2001年テキサスで、速すぎるマシンのGがドライバーの身体に異常をもたらして開催中止となった事件が起き、金と信用を損失した。
③相次ぐ有力選手やチームのIRL移籍。
④ホンダ、トヨタのエンジンを巡るいざこざからの連続撤退劇。※4

など様々な問題があり2002年にCARTは消滅。名称を変えて継続したチャンプカー・ワールドシリーズも2008年にIRLに吸収される。

しかしIRLも年々オーバルを減らし、INDYCARが正式なシリーズ名称となった今では、結局オーバルはレース全体の1/3になってしまっている状況だ。CARTとIRLの分裂は現在のインディカー人気に大きなダメージを与えたが、それだけの被害を受けながら結局現在のCART時代と同じオーバル比率だというのだから皮肉なものである。

 

そういえばF1も何度か分裂しかけたことがあったが、もしF1が分裂していて逆にCARTが1つのモノとして残っていたら、CARTがF1に代わって世界選手権になっていたかもしれない。

5.まとめ
結局、なぜインディカーがオーバルを減らしているのか。考えられる理由は4つ。

A.オーバルレースを求めるアメリカ人が、インディカーを見なくなったから
自動車レースにおけるオーバルコースは紛れもなくアメリカンレース文化の象徴だ。スプリントカーやミジェットカーは、地方では高い人気があるレースで、狭いダート競技場に3万人もの観客が押しかけているところもある。そうした地方のレースで育った「俺たちのヒーロー」たちに声援を、(南部の人々は)都会っ子たちにブーイングを浴びせながら楽しむ、そんな光景はチャンプカーにもあったかもしれない。しかし今その役割はNASCARにとって代わられてしまった。おまけに元々チャンプカーが持っていたオーバルサーキットは、興行収入で勝るNASCAR側にほとんど買われてしまった。

アメリカのインディカーファンはF1も見てる人は少なくないようだが、彼らはオーバルに関しては賛否両論だ。オーバル大好きだけど今のロード化したインディカーに興味を示す人や、F1好きの延長でオーバルの楽しさが理解できないとか、インディ500みたいなハイスピードバトル限定で好きという人、様々だ。ファンの意見について具体的な統計があるわけではないが、興行収入を考えた結果が今のインディカーのロード・オーバル比率なのだということを考えるとファンの全体像が見えてくる。

よく言えばロード、ストリート、オーバルでバランス良く争えるインディカーという独立した文化だが、IRLが完全オーバル化を目指して創られたという経緯から考えると中途半端な感じは否めない。

B.外国人ドライバーが活躍しやすいフォーミュラカーレースだから
ここで一つ疑問が思い浮かぶ。じゃあ完全オーバルを謳ったIRL時代になら、ダートオーバルのファンを取り戻せたんじゃないか?と。

その答えを求めてオーバル開催しかなかった頃の2004年のIRLのデータを探す。すぐに答えが出た。トップ20人を見ると、なんと13人が外国人である。そしてトップ5(内アメリカ人1名)は、下位カテゴリでのオーバル経験ゼロ。インディカーはドライビング技術的には、完全にスプリントカーではなくフォーミュラカーになってしまっていたようだ。オーバル特有の駆け引きよりも、フォーミュラのドライビングとセッティングに慣れることの方が重要というわけだ。実際、ちょろっとスプリントカーやミジェットカーの動画を見てみるだけで、インディカーと明らかに異なるレースだということは想像がつく。


World of outlowは、1978年から続く代表的なスプリントカー団体の1つ。

アメリカのフォーミュラのレベルは、欧州に比べると残念ながら低いと言わざるを得ない。これは競争率が段違いだからで、それはインディライツとGP2・GP3のエントリー数を比較すればお察しである。
多くのアメリカ人はアメリカが大好きである。アメリカこそ最強だとマジで思っている。彼らにとってアメリカは世界の中心である。アメリカンヒーローを見たいし、自分もなりたいと心のどこかで願っている。そんな人たちが、外国人ばかり多くて強いインディカーを見たい、挑戦したいとは思いづらいのではないだろうか。

インディカーをインディカーたらしめているのはインディ500だが、インディ500をインディ500たらしめているのは正統かつ純粋なオーバル文化ではなく、ただ100年の歴史と楕円という形のみ、と言うのは言い過ぎだろうか。しかしアメリカの戦没者慰霊の週末に、フォーミュラ出身の外国人レーサーたちが栄光を争っている光景を見ているとそうは思わずにはいられない。

(注:あくまでアメリカのレース文化の視点からインディカーを語ったものであり、差別的な意図はありません)

もう一つ。同じアメリカ人でも、NASCARレーサーたちのように、土曜日夜のスプリントカーやストックカーの宴に登場できるドライバーがインディカーにいるだろうか。少なくともハンターレイやモントーヤが、そうしたところに出場して地方の観客をわかせたという話は聞いたことがない。つまるところフォーミュラレーサーはオーバルに夢中なアメリカ人を虜にするのは難しい。

とある親日家アメリカ人ラッパーのツイート。「"ジャップ"がインディ500で勝ったからと言って、ウチの注文をキャンセルする客がいた。できることならそいつらを叱り飛ばしてやりたかったよ。クソな国だ。」佐藤琢磨がインディ500を制覇した直後記者が「不愉快」と発言して解雇される事件が起きたが、Twitterで調べると同じことを考えているアメリカ人は少なくないようだ・・・

 


C.金のかかる割に収入が足りないインディカー
インディカーはUSACの時代から金欠・コスト高騰の問題がちょくちょく発生している。
現行マシンのDW12で問題とされていたのがパーツの高さ。wikiによるとDW12のシャーシは一台につき34万ドル(3700万円)。そこにエアロキットが加わると4000万円になる。でもこれだけならLMP2やGT3のほうが高い。問題はシャーシではなくパーツ代のほう。具体的な値段は書かれていないが、チームオーナーたちが4割の値下げを要求したというのだから相当な高さなのだろう。この顛末がどうなったのかは分からないが、元々DW12に関してダラーラの儲けは多くないというし、おそらく今もそこまで安くはないだろう。

そうなるとインディカーは常に収入を求める必要があるし、観客数を見ながらサーキットを選ばざるをえなくなる。オーバルは一部の地域を除いてガンガン観客数を減らしている。当然伝統を守る余裕は無く、オーバルは減る。

以上の理由から、インディカーのオーバル比率が劇的に増えることは恐らくないだろうと思われる。これから先ロードの観客席はガラガラで、オーバルだけ人が入るようなことが起きない限りはオーバル主流のインディカーの復活はないだろう。
 


6.どんでん(掌)返し

と、この記事は元々ここまでだった。オーバルを減らすインディカーをボロクソに語ってしまったが、ここでもう一度歴史を振り返ってみよう。

チャンプカーとしてのインディカーは、元々ロード中心だったモノを、ボードトラックの人気に預かってオーバルに乗っかったことが振興の始まりだ。そして今はオーバルより人気のあるロードに大部分を乗り換えた。どちらもチャンプカーが生き残ってきた歴史として、ごくごく当然のことをしてきただけと言うことになる。

初開催年  オーバル (インディアナポリスは無し)
1900年代 ロード   (インディアナポリス登場)
1910年代~ オーバル全盛(ボードトラック登場)
1980年代 ロードの大躍進(CART誕生)
1990年代 ロードとオーバルの対立(CARTvsIRL)
2000年代 オーバルの勝利(IRL勝利)
2010年代 ロードの再躍進

確かに現在のインディカーは、インディの名にふさわしいかは分からない。しかし生き残りのために常に手を打ってきたチャンプカーの歴史にはなんら恥じることのないことをし続けているだけだ。だからインディ500だけの歴史を持ちだして非難される筋合いなど無い、と反論することができる。

 

どんな手をつかおうが…………最終的に…生き残ればよかろうなのだァァァァッ!!

これは屁理屈なのかも知れない。だがどうしてもオーバルこそ正義の目線で語られやすいインディカーを、オーバルにはもう戻れないインディカーを前向きに肯定し、これからを楽しむための材料には間違いないのではないか。
 

この記事では散々アメリカはオーバルこそ正義という決めつけじみた論調で語ってきたが、実際はロードレースも立派なアメリカ文化である。かつてIndy/CARTとALMS/GrandAmのシリーズの分裂が同時期に起こってしまったのがアメリカのロードレース文化を衰退させてしまったが、それまでのCARTやCan-Amなどの盛り上がりを見てもお分かりの様に、元々ロードレースの人気は高い。セブリング、ロングビーチ、ロード・アトランタ、ワトキンス・グレンのような伝統のロードレースが多く残っていることからもそれは窺える。

むしろインディカーは、これまで語ってきた様な複雑な背景を持ったアメリカンモータースポーツ全体の象徴としてオーバルとロードレースを含んでいる、と考えるとむしろ愛おしさすら感じないだろうか。

最近も、インディカーの視聴率は2015年2016年を通して上昇気流に乗っている。またF1のアメリカGP、メキシコGPも近年盛り上がりを見せているし、フォーミュラEに至ってはF1よりも視聴率が良かったという。もしもフォーミュラとしてのインディカーがファンの望みなら、それに堂々と応えた方が将来性はあるのではないか。そして、それこそが新たなインディカーの在り方ではないだろうか。

近年復活に向けて議論の進んでいる海外展開は、費用やプロモーションの関係もあって簡単ではないだろうが、もし成し遂げられるようなことがあればCARTのように北米一のフォーミュラとしてもう一度F1に勝負を挑む日がくるのかもしれない。やはりフォーミュラカードライバーの王を決めるのはワンメイクシャーシか、あるいはマシン差が少ないルールがふさわしいと思う人は少なくないはずだ。
北米伝統のインディ500を擁するワンメイクフォーミュラ、ドライバーの腕だけで争われる真の最高峰レース。今のF1を好まない身としては、是非望みたいものである。
 

 

 

 

この掌返しっぷり。どうぞお嗤い下さい。


注釈
※1
現在のスプリントカーやミジェットカーにも舗装路のレースはあるが、便宜上ダートオーバルと呼んでいる。


※2
AARのチームオーナーであったダン・ガーニーは、現在もフォーミュラ・市販車問わず使用されているガーニーフラップの考案者。マクラーレンは現在こそフェラーリに次ぐF1の代名詞だが、黎明期はF1より先に北米のスポーツカー(Can-Am)で成功を収めていた。なおCART発足の9年前に、創設者のブルース・マクラーレンは事故で死亡している。

※3
シルバークラウンはスプリントカーに似たマシンを使ったダートオーバルで、USAC独自のマシンである。先述のように、従来のチャンプカーの形を残すために新たに選手権を作ったのがシルバークラウンの起源だが、安全対策が充実していくうちにスプリントカーと見分けのつくにくい外見になってしまったと思われる。
シルバークラウンはスプリントカーよりホイールベースが長く、一周の距離も総距離も長いが、エンジン出力はスプリントカーに劣る。またスプリントカーの無線はスポッターの指示を聞くのみだが、シルバークラウンではドライバーからも発信できるという違いもある。

ちなみに1981~1995年のインディ500は「ゴールドクラウン」というUSACのチャンピオンシップとして開催されていた。

※4
チャンプカー・ワールド・シリーズより引用
CARTは2001年シーズン末に突如、2003年シーズンからそれまでの2,650ccターボエンジンから、3,500ccNAエンジンへエンジン規定を変更すると発表した。当時参戦していたエンジンサプライヤー達への合議がなされない状態での突然の発表だった為、ホンダは新エンジンには最低2年の開発期間が必要だとして反発(CARTのルール上も2年の猶予期間をもって発表を行うのが通例だった)。トヨタは規定変更の発表以前に、2003年以降はNAエンジンの開発に一本化すると表明していたが、結局はホンダ・トヨタは共に2002年末をもってCARTから撤退した。フォードも規定変更に反対し2003年シーズンへのエンジン供給停止(=撤退)を表明していたが、2002年中盤にCART側が再びそれまでの発表を覆す形で、2003年以降も2,650ccターボエンジンを継続使用する事を発表した為、シリーズに残留する事となった。なお、このエンジン規定を巡るCARTとサプライヤー間のトラブルについてはエンジン規定変更の発表以前、2001年シーズン中盤にCART側が過給圧を制御する為のポップオフバルブの規定変更を発表した頃から既に始まっていたと言われている。(引用終わり)

元々トヨタは2002年のF1参戦と連動して、先に3.500ccV8NAエンジンの規定が決まっていたIRLに2003年から参戦する予定だったのだが、CARTはなんとかしてトヨタを引き留めようとして、慌てて同じ規格の自然吸気エンジンの規定を発表したのだと思われる。同じ規格ゆえIRLのインディ500に出やすくなるのでトヨタにはうまみがある話だが、この話があまりに急すぎるとしてホンダ、フォードの激しい怒りを買った。その結果運営は両者の板挟みになってしまい、新規定をなかなか発表しない、事前通達・合議のない運営のでたらめさに信頼を失ったとして、ホンダ・トヨタの撤退を招いてしまった。フォードもあわや撤退というところだったが、なんとか踏みとどまってもらえた。
ちなみにポップオフバルブのいざこざの件はこちらが詳しい。

参考文献:
How NASCAR came to be more popular than IndyCar
Insights & Analysis : Why Indycar must make ovals work
sprint-car-racing
ChampCarstas.com
インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか

Yui Racing School presents

wikiより
American Championship car racing 
Board truck racing
Dirt track racing
Modified stock car racing

その他
IRLの生きる道

2013 INDYCAR ニュース 第97回インディー500 5月23日 :ホンダとUSAC Vol.1  Vol.2
もうひとつのワールドシリーズ