日本人であれ外国人であれ、同世代の作家の作品はこれまでほとんど読んでこなかった。唯一の例外が中国人作家の王小波だ。彼は1952年生まれ、ぼくは1951年生まれだ。
今回この巻を読みながら、同世代ということがなぜ気になったかというと、同世代だと、自他の比較が簡単にでき、王小波という男のすごさが改めてよくわかると同時に自分の卑小さが実感されたからだ。例えば夏目漱石や森鴎外、ドストエフスキーやチエホフなどを読んだ場合だと、ただ感心していればよいのだけど、同世代の王小波の作品を読むとそうはいかない。
巻頭の「沈黙の大多数」をはじめとする五十篇余りの雑文を集めたこの巻を読むのはもう、五、六回目だが、今回も一篇一篇読みながら、これはすごいと思うもの、なるほどとは思うけれどこちらのやっかみもありこれは思いつきにすぎない考察じゃないかと思うもの、王小波の頭がよすぎて論理についていけず理解できないものなどなど、いろいろあり、全体の印象としては感動した、感心したと余韻にふけるような感じにはなれなかった。
以下のような言葉が王小波らしいなと思った。
《一人の中国人として、最大の苦痛は他人が“自分の気持ちがこうだから相手の気持ちもこうだろうと推し量って考えてくる”その回数をがまんして耐えなければならないことで、世界のどんな地方の人よりもそれが多い。ぼくが言いたいのは自分が中国人であることが嫌だということではなく(これは僕が最も好きなことだ)、言いたいのは、これが文化事業の発展にとってとても不都合だということだ。》(「手のひらから飛び出す」)
『王小波全集 第七巻 雑文 沈黙の大多数』
譯林出版社2012年9月第3次印刷