福田恒存の『人間・この劇的なるもの』は若い二十代のころ読んだことがあって、内容をほとんど忘れていたのだか、数年前、BOOKOFFで文庫本になっているのを見つけて読んで共感し、その後二年前にも読んだはずだが、今回もう一度しっかり読もうと思い、三回繰り返して読んでみた。

 今回三回も読んだのは一回読んだだけではわからないところがあったので、もう一回読んだのだが、やはりわからないところが出てきたので、結局三回読むことになってしまったのだ。

 三回読んで多少なりとも、筆者の言わんとするところに対する理解は深まったと思うが、反対にこれは自分の問題として切実かということに疑問を感じてしまい、がっかりもした。

 《劇的に生きたいというのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、一個の芸術作品に仕たてあげたいということにほかならぬ。この慾望がなければ、芸術などというものは存在しなかったであろう。役者ばかりではない。人間存在そのものが、すでに二重性をもっているのだ。人間はただ生きることを欲しているのではない。生の豊かさを欲しているのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味わうこと、それを欲している。現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに関わらずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ。》

 これがこの『人間・この劇的なるもの』で筆者の言わんとするところで、筆者はシェイクスピアの『ハムレット』のハムレットについて語ることで、この言わんとするところを見事に具体化してみせる。

 『ハムレット』を今後読む場合、おそらく、ぼくは福田恒存の見たハムレットの姿から逃れられないだろう。ましてやぼくが読む『ハムレット』は福田の訳した『ハムレット』なのだから、なおさらだ。ぼくはそれに不満ではないどころか、そのように読むことを欲してもいる。それはつまり、そこに福田の言う人間というものの姿を垣間見ることができるはずだからだ。

 不満なのはそういう人間の姿というものが今の自分にとってそれほど切実なものに感じられないことだ。切実でないことがわかって、これ以上続けてこの『人間・この劇的なるもの』を読む意味が感じられなくなった。猫に小判だと思ったのだ。

 

『人間・この劇的なるもの』福田恒存

 新潮文庫 平成24910 9