この『小島信夫文学論集』も読んだのは半世紀ぶりだ。

 一部のそれも今では特別重要でもないと思える言葉、文章を覚えていて、懐かしい気持ちがした。

 半世紀前もそうだし今回も小島信夫が語っている大部分はわかりづらいのだが、ずばっと語る言葉に「なるほど、そうだ」と同感することがある。例えば以下のような言葉。

 《およそ文学作品を鑑賞するということはどういうことかと考えてみるに、それは作品を読みながら、次第に読者である自分を通じて人間を発見して行く過程だと云える。》『時間の傷痕――ブロンテ「嵐が丘」』

 この『嵐が丘』について書かれた解説そのものは読んであまりよくわからなかったが、その冒頭のこの言葉には半世紀前も線を引いてあり、今回も良いことを言うなと思った。

 《ナマケモノだから居心地の悪さにすこぶる腹が立つのだ。》『風刺作家自身の鼻面――ゴーゴリ』 

 すべての怠け者が居心地の悪さというものに腹が立つものでもないだろうが、このように感じ、語る小島信夫にぼくは親近感を覚える。

 《老人こそ愚痴をいってはいけない。孤独こそ自分のものだ。しかも孤独は行動の中にしかない。》『中年文学の困難――ヘミングウェイ「河を渡って木立の中へ」』

 こんなことを言われるとぼくは思わず自らを振り返ってしまう。

 このように書くとぼくが小島信夫の言うことなら何でもわかっているように思われるかもしれないが、実は難しくてよくわからないことが大半だと言ったほうが良いのだ。

 残された時間でどこまでわかる部分を増やすことができるか挑戦してみたいとも思う。

 

『小島信夫文学論集』

 晶文社1966320日第一刷発行